演習U前期レポート
片岡大輔
「人間が創り出す地獄―西洋と日本の比較」
人間の本当の罪とは何か。「神曲」の中での地獄は罪を犯した人間が裁かれ罰を受ける場所である。そしてダンテ自身感じる人間の罪を表した空間である。
ダンテはキリスト教の最高の詩人sommo poetaと呼び習わされて来た(注1)
このように「神曲」はキリスト教の世界を文学作品に描いたものだ。よって罪意識に関しては独特の世界観を持っていると感じる。
1、人間の罪意識と「神曲」
私は罪ということばには、罪を犯すことと、人間存在自体の罪と2種類あると思う。罪を犯すということは村、国など社会という限られた空間の中で誰もが罪だと認識できる行動だ。つまり社会が作ったルールを破ることである。逆に人間存在自体の罪は誰でも同じ考えを持つとは限らない。個々の道徳観や罪意識によるものである。もっぱら個々人が属する宗教の信仰とも言えるかもしれない。当然現実の世界で裁かれることはない。あらゆる宗教で天国と地獄を考えられてきたことはこの罪が左右する。「神曲」の中の地獄はあくまでダンテが想像と自意識で創られたものである。もし天国と地獄が存在するのならばそれは人間のどんな考えも受け付けない絶対的な場所であるからだ。よって正直、この文学作品をどう捉えて読むべきなのか、考え込んでしまった。物語として読み進めると非現実的、かつ巧みな文章の組み立てによって、読み味あうのは楽でおもしろいと感じるだろう。しかしこの作品はそれだけでは済まされない深いものがある。それは人間の本質と宗教的罪を述べているからだ。それを危険だと感じてしまう。平川氏も著書の中で
「キリスト教以外の世界にまで、そのまま全面的に通用するはずがない。イスラムの人々にとって不敬だ」と述べている。(注2)
物語というのは結局作者によって作られたものである。その中で人間の罪について段階的に提示し、地獄で罰せられるという内容は一方的で読者を動揺させると思う。さらに罪の提示をしてもその根本のところを読者に委ねているところがある。つまり地獄という絶対的な空間を、一人の人間の意見で作品の中で絶対化しているということだ。前に述べたように、ここでの罪は現実で裁くことができない人間の心の中にあるものだから作り話だとしても危険に感じるのである。
2、「神曲」の罪とそれに対する罰
ダンテが考える人間の罪と罰、またその罰の意味について述べたい。理由として、なぜその罪にはこういう罰なのだろうと疑問に思ったからだ。
まず第3歌でダンテが地獄で見ることになる罪人は、神に仕えるでもなく、背くでもなく、ただ自分たちのためにだけ存在した人間である。そして
「こいつらには死の希望さえないのだ」(注3)
とウェルギリウスは述べている。なぜかと言えば、この物語がキリスト教の教えにそって描かれた地獄であるからだ。よってこの者たちは天国から追い払われ、地獄からも受け入れてはくれない。ゆえに罪人は蜂や虻にさされ、泣きながら走り回るという光景が出来上がる。このように地獄巡りの中で罪と罰が意味付けにより密接に関わっている場面がしばしば見られる。
第7歌では、欲張りの群と浪費家の群が罰せられている。
「円周状の道の上を重たい荷物を転がしながら、渦巻きのように互いに逆方向に向かって走り、円周上の一点まで来ると出会い頭に罵り、殴り合い、挙げ句に双方ともまたもと来た道を引き返し、また向こうの一点でぶつかり殴り合う。」(注4)
この表裏をなす罪がお互いに同じ場所で苦しみを受けていることにダンテのセンスを感じた。富貴をめぐっての人間の悪はキリスト教の考えによるものだ。欲張り、浪費家両者にとって生きた現実世界で自分の行動が罪だと感じなかったことが罪であり、地獄において両極端の二者が互いに悪の主張を叫び傷付け合うという物語が、理に叶った罰だと感じる。
次に出てくる怒り狂った者の話では、罪人は沼に浸かった泥まみれの人々である。この怒り狂った罪人は
「手で殴りあうだけではない。頭や胸でぶつかり、脚で蹴り、歯で一片また一片と相手の肉を噛み千切っている。」(注5)
怒り狂ったものは地獄でも怒り狂っていて結局互いに傷付け合っている。これはわざわざ罰を与えなくてもおのずから苦しんでいるのだから悲しい人間だと思う。一つ地獄での違いは、沼の水面下でもため息をついている罪人だが水の中のためにはっきりと言葉に出して言うことができないということだ。結局人間の悪というよりもただの惨めな生き物に過ぎないと感じた。
第13歌でもまたうまく罪と罰が関係している。ここでは自殺した人間が罰せられている森である。つまり自殺した人間が木に変えさせられている。自殺した木は自らの体を傷つけたわけで当然のこととして地獄でも
「鳥身女面の怪鳥が葉をついばみ、苦痛を与え、苦痛にはけ口を与えている。」(注6)
自殺という自害行為が悪により裁かれこの地獄でも自分の体を痛めつけられていることは運命としか言い切れようがない。また最後の審判のときに自分の亡骸を探しに行くが誰一人としてそれを身に付けることはできない。これは自分で自分を捨てたのだから、捨てたものをつけるのは道理に合わないからだ。このようにダンテは地獄めぐりの中で罪と罰を設定し、それもまた道理に合った罰であり、人間の罪を悔い改めるもっとも苦痛に感じさせる地獄を創り上げている。
私自身人間の罪や、どう生きることが人間らしいのかという疑問を日頃考えてしまう。この問題に関しては私だけの答えを探せばいいと思う。人類全て考えることは神の領域であるからだ。自分なりの結論をいつか出せればそれで楽になると思う。これからの経験が答えへと導いてくれると信じている。もしあの世が存在するとしても、それは神の絶対的な空間なのだからそれに従うしかない。今現世でそんなことが分かるはずがない。本当の答えは分からないのだから、この世で自分を創れればそれでいいと思う。それで地獄に落ちたとしても仕方がないことだ。人間は弱い存在なのだから、運命に従うことしかできないのかもしれない。
3、詩人としてのダンテの表現
「人間はどうも時々臆病風に吹かれるらしい」(注7)
私はこの文が一番ダンテの心を表していると考える。この場面でダンテは地獄巡りの決心をするわけだが、ダンテの心配を励ますウェルギリウスの出現も神曲の文学作品としてのテクニックと、人間の臆病さを表現する面白い設定だと思う。ウェルギリウスは地獄巡りのお供役であるが、この場面の他にもダンテを励ます場面がたびたび出てくる。ウェルギリウスの励ましというのは、恐ろしい地獄をまのあたりにする読者も励ましているかのようであった。私自身も人間が臆病だと感じることがしばしばある。そもそも人間に臆病さがなければダンテも神曲を書くことはなかったと思う。人間は誰でも臆病だ。人間が臆病であるゆえに日々不安感を抱き、人間の罪意識を感じてしまう。ダンテは、
「臆病によって名誉ある仕事を投げ出したりする」(注8)
と書いてあるが、結果的にそうなったとしても自分の道を決定する一要因となることは明らかである。人間が臆病になっている時、どう行動するかは本人の勇気や経験による。もしそこで逃げてしまえばさらに臆病な人間になってしまうが、後悔することもあるし、罪意識に捕らわれるかもしれない。しかしそれが経験となり、今後の自分の決定に影響を与える時もある。また臆病さに打ち勝ち乗り切ることができたならば、臆病に感じていたことが逆に自信を持つカンフル剤となりうる。何事に対しても臆病であることは前進できないが、人間が臆病であるのは仕方がないことなのだから、それをうまく利用するのが最善の策かもしれないと思う。神曲の中でもダンテとウェルギリウスの関係が臆病さと罪、勇気を示していると思う。
「不幸の日にあって幸福の時を思い出すほど辛い苦しみはありません」(注9)
この文からはダンテの詩人としての魅力が感じられる。平川氏は「神曲」の中のこのような表現を金言、格言としている。
「金言や格言とは、教訓や風刺の意を寓する短句である故に、独立して存在感を持つ。」(注10)
「神曲」は恐ろしい地獄の中にこのような美しい表現が所々に見られその対比がおもしろい。私は個人的にこの金言が好きだ。不幸の日に直面したとき、何に対して辛く悲しいと思うか。それは自分のことかもしれないし、両親、友人、恋人など他者のことかもしれない。共通することは、それによって自分の感情が乱れるということだ。この文は女性が愛を語る場面で使われている。確かに男と女の恋にこの言葉はその通りだと思う。私はこのような気持ちは恋愛だけにとどまらず、様々な不幸にある時に同様の気持ちを持つ。不幸の日に幸福な時を思い出すのはなぜだろうか。不幸が幸福の正反対だからだろうか。しかしその辛い苦しみには意味があるのか分からない。そういったものに意味なんていらないのかもしれないが、慰めになりうるなら意味付けが欲しいと感じる。神々がそれを見たら、愚かでつまらないことだとみなすだろう。きっとダンテもそう感じて地獄の罪として書いたのだと思う。この点は私と重なるところがあると自覚できる。人間としての罪と言えるのか分からないけれども、幸福を想う辛い苦しみは愚かでみじめだとしか言えない。しかし、このような気持ちは人生の中で嫌というほどたくさんある。考えすぎても何の解決にならないが、仕方ないとも思う。幸せを願う人間は不幸になる時があるのは当然のことである。
4、「神曲」の文学的テクニック、表現
「まずこの悪臭に少し慣れて気にせずにすむようになるまで多少下へ降りるのを遅らした方が得策のようだ」(注11)
この第十一歌ではダンテたちが先に進むのを止め、これから見ることになる罪人の経緯
を説明するところだが、この歌のおかげでこの先の文章がテンポよく鮮やかに描かれてい
ると感じる。これまでの文章は、地獄の各圏でダンテが目の当たりにする光景をそのつど
ウェルギリウスが説明し、慰めていく書き方であったが、これからの文章はあらかじめそ
の圏の説明がされているため情景描写と、第三者の登場人物との絡み合いがしばしば見ら
れ面白く感じた。物語として初めからこれからの地獄の有り様を説明するのはおもしろく
ない。特に地獄巡りという恐怖心を与えられているからなおさらだ。そしてこの第十一歌
で一息ついている。ダンテが「神曲」で書きたいことは単に地獄を示すだけではない。地
獄への罪をキリスト教の教えにそって説いているのである。よってこれ以後の階層におい
て地獄の様子だけでなく罪人との会話や行動によって更に人間の罪について追究されてい
る。ダンテ自身これから書いていく情景が頭の中に膨らみ、ダンテと罪人とのかけひき
そのものを表現したかったためにここで端的に説明したのだろう。このような全体として
の構成にダンテの巧みなテクニックを見ることができた。
「私は世界が例の愛を感じたのかと思った」 (注12)
私はこの発言が非常に重要だと感じた。ここは岩の崩れを話している場面だが、短い文
章の中で場面の変化が巧妙に行われている。次の場面でケンタウロスが登場し、深淵をダ
ンテがケンタウロスの上に乗り、越えることになる。その深淵を作る原因として世界が例
の愛を感じて世界が混沌にかえるとしたところにダンテのうまさを感じた。またその原因
はこれまでウェルギリウスが述べてきた愛のことであり、キリストが地獄に降りてきたと
設定していて素晴らしいと思った。重要というのは、場面の展開のみならず愛を感じる救
済の希望から血の川へと突き落とされる現実がダンテの絶望感を表しているということだ。
「熱湯が彼らの目玉を焼いて永久に涙を枯らしてしまうのだ」 (注13)
この目玉を焼くという罰は想像した通りの地獄だが、涙を枯らしてしまうためという
理由に残酷さの中に美しさを感じた。地獄は現世で犯した罪を償う場所だが、意味
のない罰ではなく悲しみの涙も流せない本当の苦痛を与える地獄はダンテにとって完璧な
ものだと思う。
「亡骸を探しに行くが、誰一人それを身につけることはできない」(注14)
ここは自殺した人間が罰せられている森の話だが、まず自害という行為が他人や神に暴
力を振るうことと同じ自明の道理であることは、第十一歌で説明があった。そしてここで
実際の罰を描いている。多くの場所で第十一歌の役割が活かされていて、この人間が木に
宿される場面も効果的に映し出されていると思った。私がなるほどと思ったのは、自殺し
た人間が亡骸を探しに行っても誰も身につけることができないことだ。確かに自分で自
分を捨てたのだから、捨てたものをつけるのは道理に合わない。自殺した人間が木とな
り、枝を引き裂かれる罰は理にかなったことだと思った。この自殺者の森の話を平川氏は
ロマンティックな場面と解釈できるとしている。
「緑の葉はなく、黒ずんだ葉が繁り、
すこやかにのびた枝はなく、節くれてひね曲がり、
果実はみのらず、毒をふくんだ棘が生えていた。 」(注15)
健康な樹木との対照の強調は色についても、形についても、生態についても繰返される。
これはコントラストの強調の技法である。(注16)
「ひびがはいっていてそこから涙がこぼれる、その雫が集まって岩を穿ち、その流れが岩から岩を伝ってこの谷となり〜川となる」(注17)
ひびが入っているのは巨人の体であるが、現世の巨人の涙が源を発して地獄に川が存在
していることに、美しさを感じた。この涙の川は、火という火をみな消してしまう。
ここでの罰は神を冒涜した者が火の雪を浴びせられることだ。その中で巨人の涙の川がそ
ばに流れているダンテの想像にいっそう美しさを感じた。
「ブルネット先生、ここにおいででしたか?」 (注18)
地獄で自らの先生と遭遇することとなったダンテだが、地獄の中で先生から諭される設
定を思いついたことにおもしろさを感じた。地獄に先生がいるということは、作者のダン
テが自分の先生を地獄へ突き落としたことになる。しかしダンテは地獄にいる先生に忠実
で尊敬して接していることが伺われる。なぜ敬愛する先生を地獄へ突き落としたかといえ
ば、それはダンテが自分に嘘をつけず、感情を入れることなく先生を見て判断した結果
だと思う。平川氏は、作者としてのダンテは、聖書に記されたキリスト教的価値観に従い、
敬愛する師をあえて地獄へ落としたのだと述べている。(注19)先生が亡者の一群の中に
いるのだからそう考えておかしくないと感じる。
5、「神曲」の中での怪物の演出
私はダンテが地獄を物語として書く上でたびたび登場する怪物たちがさらに地獄の恐ろしさと残酷さを効果的に演出していると思う。
まず第三歌、物語りの始めで地獄の生々しいところを描いている。
「まる裸でそこいらにいる蜂や虻に刺しまくられていた。おかげで彼らの顔は血まみれとなり、それが涙と混じって足元にたれ、それをまたいまわしい虫けらが吸っていた。」
(注20)
この風景を思い浮かべただけでも吐き気がするくらい残酷である。始めにこの場面を持ってきたことでさらにこれから登場する怪物たちが恐ろしく思え、地獄の恐怖をうまく描いていると思う。
第五歌初めに登場する怪物はミノスだ。
「ミノスが仁王立ちで形相も凄まじく歯噛みしている。入り口で罪業を糺し、刑を下す、ミノスが尾を巻いた数に応じて、罪人は下へ落とされる。」(注21)
ミノス自体が罪人に直接苦痛を与えるわけではないが、入り口でこのような恐ろしい怪物
がいることで、中にはもっと恐ろしい怪物がいるのではないか、恐ろしい罰をうけるのだ
ろうという恐怖感が生まれる。個人的に面白いと思ったのは、ミノスの尾の巻き数で罪人
が落とされるということだ。「神曲」の地獄は階層によって作られているので尾の巻き数で
落としていくという発想には驚いた。ウェルギリウスが書いた「アエネイス」では、地獄
の裁判官ミノスが籤壺をふって順番を決め冥界の居場所を決めるということだ(注22)
第六歌、実際罪人に対し痛みと苦しみを与える怪物が登場する。ケルベロスである。
「濁った水や雪が、暗黒の大気の中をはい然と降りしきる、そしてそれを受ける大地は悪臭を放つ」
「目は赤く血走り、髯は脂ぎってどす黒い、胴回りは太く、手には爪が鋭い。」
「亡者に爪を立てる、呑み込む、また引き裂く」(注23)
ダンテは恐ろしい怪物を登場させる前に背景の演出を行い、そして怪物の有り様を鋭く書いている。この背景と怪物が絶妙に恐怖を表現している。ここで罰を受けるのは生前大食いであったものである。大食いであった人間が地獄では逆に餌を貪り食う怪物に食いちぎられるのだから皮肉な話だ。この場面で先生はケルベロスに対して「土くれ」を放ったのだが、「アエネイス」では巫女シビュラが「蜂蜜と薬とを混ぜた小麦粉の団子」を放ったという。(注24)「神曲」の登場人物であるダンテとウェルギリウスの物語でこうも比較ができることに面白さを感じた。
第12歌でケンタウロスが登場する。この怪物とも呼べない者は半身半馬という形をとっている。これはおもしろいと思った。ケンタウロスは生前暴君だったものを刑するのである。罪人は赤い血の川の中で熱湯攻めされる。罪に応じて定められた以上に身を起こすと、それをケンタウロスが矢で射るのである。またこの場面ではケンタウロスがダンテたちの案内役をかっている。この怪物は人間的な要素と怪物の要素を含んでいるのである。物語におけるケンタウロスの役割を私はこう考える。まず前提として血の川がダンテの目の前にあるのだから、ダンテがそこを越えるための助っ人が必要である。そのような手助けの気持ちは人間が持つものだ。そしてその川には罰を与える執行役が必要。地獄において罰を与える者が人間だと神の世界を人間が関わることになり、普遍性を持たなくなる。そこでケンタウロスという半身半馬の怪物を登場させたのだと思う。
ダンテは「神曲」の中で罪と罰を効果的に、かつ忠実に表現するために、これまで述べたように、罪と罰の意味付けを設定し、怪物などの想像の生き物を創り上げたのだと思う。それによって物語としての面白さがうまくとりこまれている。
6、日本と西洋における地獄の比較
地獄という場所は日本と西洋においてどのような違いがあるのか。まず空想的空間である地獄を日本、西洋両者が持っていることは共通である。また地獄と対称的な天国を持つことも同様だ。これは日本と西洋に限らず、宗教を持つほぼ全ての国において言えることである。しかしあくまで想像によって創られた地獄は概念は同じでも性質は異なる。私は日本と西洋についてそれぞれの特徴が大きく出ているのは、地獄の有り様と、住み着いている生物だと思う。そこで日本と西洋の地獄に住む生物を比較してみる。
まず、日本の地獄は現世と混同している傾向が強い。つまり、現世の普段の生活の中に地獄が存在しているのだ。そして日本人にとって地獄は鬼の存在が大きく関わっている。平安時代に書かれた「餓鬼草紙」を見てみると、現世の世界に餓鬼が共存している形で描かれている。前世で罪業を犯した人間が餓鬼となり、現世の世界で醜い有り様をして現れるのだ。ダンテの「神曲」では地獄と現世は切り離されており、前世で罪を犯した人々は、その罪を裁かれ、地獄の中で罪相応の罰をそれぞれが受けている。日本の地獄ではまず罪人が餓鬼という形に姿を変えられるのが前提だ。そして罪を裁かれるという処置はとられないようだ。しかし罪人全てが餓鬼となるが、その餓鬼にはさまざまな種類が存在する。炎を吐く者、食べた物を吐く者、糞尿を喰う者、死肉を喰う者、何も喰えない者などがそうだ。「餓鬼草紙」は絵巻物であり、また題材となった書物もないので、絵から読み取ることしかできない。よって推測による意見だが、餓鬼がそれぞれの特徴を持っているのは、ただ単に創ったものではなく、その特徴を意味付ける罪が仮定されていたのだと思う。だから暗黙のうちに罪を裁くということは行われていると考えることができる。「餓鬼草紙」ではただ罪人が罰を受けている世界だけ描かれたにすぎないのではないか。そう考えると「餓鬼草紙」の地獄と「神曲」の地獄とは、罪を裁かれ、それに合った罰を受けるという点で同じである。
次に地獄に登場する罪人以外の生物について比較する。地獄は世界共通に恐ろしい場所であることは間違いない。その恐ろしさを演出している一つに罪人を苦しめる怪物が挙げられるだろう。「神曲」ではその怪物は、古代神話、ギリシャ神話から登場されている。
カロン
カロンは冥界の渡し守である。魂が死者の王国に入るためには、彼の操る船に乗ってアケロン河を渡らねばならない。彼は長い髭をたくわえた老人で、渡し賃を払えないものに対しては容赦をしない。(注25)
ミノス
クレタ王で、ゼウスとエウロペの息子。ミノスはクノッソスの最初の支配者で、正義と柔和さをもってクレタの人々を統治し、ミノア文明を開花させたと言われている。賢明な立法者としての資質を買われ冥界でアイアコスの補佐をする裁判官の一人に選ばれた。(注26)
ケルベロス
冥界の門の番犬。三つの頭と蛇の尻尾をもち、たてがみは毒蛇の頭である。死者の王国に入ってくるものを震え上がらせ、誰であろうが出ることを許さない。だが生きたまま地獄に降りてきた英雄たちには降参した。(注27)
ディース
地下の暗黒界の王ハーデースHadesの別名。[死者はすべて彼のところに集まってくる。その名は<見えぬもの>を意味するが、彼は、一度来れば帰ることのない死者に富めるものとして、また、地中より植物を芽生えさせる地下の富の所有者として、プルートーンPlouton(富者)とも呼ばれる。ローマ人は、彼をプルートーと呼ぶが、それをラテン語に訳してディースDis(富者)とも読んでいる(注28)
メドゥーサ
ポルキュスとケートーの三人娘の一人。メドゥーサは三姉妹のうちで唯一不死身ではなかった。ゴルゴン三姉妹の一人で、蛇の髪を持ち、その顔を見たものは誰でも石になってしまうほどの恐ろしい顔をした怪物。(注29)
ミノタウロス
頭が牡牛、身体が人間の異種混合の怪物。本名はアステリオンという。クレタ王ミノスの妻パシパエが、ポセイドンから王に贈られ白い立派な牡牛と交わって生まれた。王はミノタウロスが人目に触れないよう、ダイダロスにラビュリントスを造らせ、その中に閉じ込めた。(注30)
ケンタウロス
ケンタウロスはテッサリアの王イクシオンの息子たちである。上半身が人間、下半身が馬の姿をしていた。未開の地で木の枝や石を使って狩りをし、生肉を食べて暮らしていた。ケイロンは聡明で学識が高いことで知られる。自然を表す動物的存在と文化を表す人間的側面が同居している。(注31)
このようにギリシャ神話に出てくる伝説上の人物が地獄で怪物となり、罪人たちを裁くのだ。ダンテは地獄の中で恐ろしさを描くために、伝説上の人物を怪物へと転換した。また市の名前にも神話に登場する人物の名前を使っている。地獄に存在するものは全て架空のものであり、ダンテは現実世界とは全く別の世界を創り上げたのだ。そして罰を受けている罪人には、過去実際に存在していた著名人を登場させている。地獄へ行く人物は逆に現実世界で存在した人間なのだ。このように地獄と現世をはっきりと区別していることによって、空想の中にリアルな部分を演出しているのだと思う。
日本で想像されてきた地獄はどういったものなのか。まず「地獄草紙」をとりあげてみる。「地獄草紙」は中世、安住院本、原家本、益田家本の三本によって作られたものである。
益田家本地獄草紙
足のついた横広の台の上で僧たちを切り刻んでいる青鬼、赤鬼や側に控えて肉の入った皿を持っている鬼。虫、鳥など畜生の形をしたものが現れて血を吸い、肉を食うことを語る。(注32)
安住院本地獄草紙
絵の中にとくに鬼の姿はないが、足や頭から血を流し、苦痛に耐えかねている人間が存在する。高く燃え上がる大火の中に追い込む鬼を左右に配し、苦しみ叫ぶ男女を火中に描いている。(注33)
原家本地獄草紙
鬼が左手に罪人をとらえて鉄の大臼に押し込みながら、右手に数人の罪人を抱え込んでいる。上唇の大きな鬼や、臼を足で踏ん張って左右から綱を引っ張り、臼の下から砕けた罪人を絞り出している2匹の鬼、さらに笑いながら箕に骨だけをより分けてそれを川に流している、乳房の垂れ下がった鬼婆などを描く。(注34)
地獄草紙の中にも、「神曲」の怪物のように苦痛を与えるものは存在する。それは獄卒鬼と呼ばれる鬼である。要するに獄卒鬼は「神曲」に出てくる怪物たちと同じ役割を持っているのである。しかし「神曲」と異なる点もたくさんある。罪人も苦痛を与える者も鬼という形で描かれていることだ。日本では地獄といえば鬼がいるところだという固定観念があったに違いない。そして一番の特徴というのはやはり、人間の醜さや、グロテスクな表現が多いことだ。よって「餓鬼草紙」に関しても「神曲」と同じようにリアリティーを感じることができる。「神曲」では著名人の名前を出すことで別世界の地獄でありながら現実世界との関係をつなぐことができ、リアルである。対称的に「餓鬼草紙」では現実世界と地獄とを共存させることによって日常生活に深く関わらせているのでリアリティーを感じるのだろう。また、生きた人間の糞尿を餓鬼が食べるといった人間の生理的醜態な行為などには「神曲」には見られない卑猥さが窺われる。
日本人が考える地獄で「神曲」に出てくるような怪物が登場しないというわけではない。室町時代に描かれた「土蜘蛛草紙」、江戸後期の絵師・歌川国芳作が描いた「頼光土蜘蛛を切る」では鬼ではなく大蜘蛛が登場する。これらは「太平記・剣の巻」源頼光の土蜘蛛退治をモチーフにしたものである。(注35)大蜘蛛は確かに怪物であるが、「神曲」の怪物と異なる点は、大蜘蛛が現世で存在するということだ。蜘蛛はあくまで動物であって架空のものではない。しかも源頼光が退治するという超現実的な話である。この大蜘蛛が描かれたのは鬼が現れる前で、江戸時代以前のものだ。つまり日本人が想像する恐ろしい地獄は、誇大化された動物から、架空の創られた化け物に変化したといえる。やはり、現実世界での恐怖が身近なものから架空のものへと移り変わるさまは、日本人の宗教的な発達が影響しているのだと思う。
このように日本と西洋が考えてきた地獄像は、姿かたちが違っていてもとても似ている点が多く見られる。やはり国が違っていても、同じ人間として死への恐怖、死後の世界への追究心は変わらないのだと思う。だから現世と全く関わり合いのない地獄がそれぞれの国で創造されて来たのは当然の結果だと言っても過言ではない。人間には何に対しても解き明かそうとする性質がある。その結果動物や自然、宇宙などの研究がされてきて、今では様々なことが分かっている。しかし、死後の世界はどうがんばっても分からないことである。それでも人間は追及しようとする。そして不安になるのである。人間にとってこの未知の問題が解明されることが不安を取り除く方法である。けれどもこの問題が解決されれば、その時点で人間の生きる意味はなくなってしまうのではないか。分からないからこそ人間は精一杯生きているのだと思う。確かに不安は持ってしまうものだが、それを耐えて生きていきたいものである。
参考図書
「神曲」ダンテ 平川祐弘訳 河出書房新書
「ダンテの地獄を読む」 平川祐弘 河出書房新書
「ギリシャ・ローマ神話文化辞典」 ルネ・マルタン監修 松村一男訳 原書房
「日本人と地獄」 石田瑞麿 春秋社
脚注
注1 「ダンテの地獄を読む」 平川祐弘 P13
2 同上 P14
3 「神曲」ダンテ 平川祐弘訳 P13
4 同上 P26
5 同上 P28
6 同上 P48
7 同上 P10
8 同上 P10
9 同上 P22
10 同上 P47
11 同上 P40
12 同上 P43
13 同上 P45
14 同上 P48
15 同上 P46
16 「ダンテの地獄を読む」 平川祐弘 P34
17 「神曲」ダンテ 平川祐弘訳 P52
18 同上 P54
19 「ダンテの地獄を読む」 平川祐弘 P240
20 「神曲」ダンテ 平川祐弘訳 P14
21 同上 P19
22 「ダンテの地獄を読む」 平川祐弘 P144
23 「神曲」ダンテ 平川祐弘訳 P23
24 「ダンテの神曲を読む」 平川祐弘 P142
25 「ギリシャ・ローマ神話文化辞典」 ルネ・マルタン P90
26 同上 P221
27 同上 P99
28 http://www3.justnet.ne.jp/~h-nkns/
29 「ギリシャ・ローマ神話文化辞典」 ルネ・マルタン P198
30 同上 P222
31 同上 P100
32 「日本人と地獄」 石田瑞麿 P197
33 同上 P201
34 同上 P204
35 http://www.people.or.jp/~yoshiyasu/zukan/zu0.htm