総目次
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1、創世記1(序章 )――――――――――――素晴らしい世界と人間(旧約の世界観)
神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。
男と女に創造された。(創世1・27)
見よ、それは極めて良かった。(創世1・31b)
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天と地の創造(1章)―極めて良かった
1:1 初めに、神は天地を創造された。
1:2
地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。
1:3 神は言われた。「光あれ。」こうして、光があった。
1:4 神は光を見て、良しとされた。
神は光と闇を分け、1:5
光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれた。夕べがあり、朝があった。第一の日である。
有名な「天地創造」の創世記の出だしです。
天地の創造の次第は、地は混沌とし、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた原初の状態から始まります。
第一日目は、「光りあれ」という神のみ言葉で、光りと闇にわけられた。4、5 節。
第二日目は、「水の中に大空あれ。水と水を分けよ」のみ言葉で、大空が出来た。6、7、8節
。
1:6
神は言われた。「水の中に大空あれ。水と水を分けよ。」
1:7
神は大空を造り、大空の下と大空の上に水を分けさせられた。そのようになった。
1:8 神は大空を天と呼ばれた。夕べがあり、朝があった。第二の日である。
第三日目は、「水は集まれ。乾いた所が現れよ。」で、「地」と「海」が出来た。9、10節。また「地には草と果樹を芽生えさせよ。」で、「草木」が出来た。11〜13節 。
第四日目は、「大空に光る物があって、地を照らせ」で、昼の太陽と夜の月と星が出来た。14〜19 節。
第五日目は、水に群がるもの、魚類を作り、空には飛ぶ鳥をお作りになった。20〜23節。
第六日目には、家畜、土を這う物、地の獣を作り、24〜25節。
そして、終わりに
1:27 神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された。
そして、神の似姿として作られた、男女を次のように祝福された。
「生めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ。」28節。
1:30
地の獣、空の鳥、地を這うものなど、すべて命あるものにはあらゆる青草を食べさせよう。(※4、肉食動物いない?)
そして、最後に
「神はお造りになったすべてのものをご覧になった。見よ、それは極めて良かった。」1章31、
と仰せられた。非常に満足なさったということです。
しかも、この「良しとされた」という言葉は、4節、10節、12節、18節、21節、24節に度々でてきています。その外、「祝福していわれた」も2か所あります。ですから、この1章は、神の創造された地球讃歌、人間創生の神の喜びの章ともいえます。素晴らしい天地と人間の創造です。否定的な悪魔の影はひとかけらもありません。
ご満足なさった神は、第七の日に、お休みになります。これが、安息日のいわれです。
2:3 この日に神はすべての創造の仕事を離れ、安息なさったので、第七の日を神は祝福し、聖別された。
2:4 これが天地創造の由来である。
祝福された世界と人間―序章(1・1〜2・4a)
私たちキリスト者は、旧約聖書の「天地創造物語」と聞くと、直ちに、次章から始る「失楽園」の物語、禁断の木の実を食べた人類の堕落のお話を思い浮かべます。この人祖アダムとエバのために、世は罪の闇におおわれ、人類は原罪に陥ってしまったと。ロマ書5・12「一人の人によって罪が世に入り、罪によって死が入り込んだ」が、キリストの贖いにより、この罪は償われ人類の救済は成就したが、本当の天国は終末の時しか来ないのだと、教えられています。
しかし、この第1章の結論は、全く楽天的肯定的な世界観なので、驚きます。暗い影は、一つもありません。神様が満足なさるような素晴らしい世界なのです。人間も神と同じ姿に作られたという、人間の賛美と、それを創造した神へのゆるぎない信頼が告白されています。
この1章は、ユダヤ王国が滅亡しバビロンに連行され捕虜生活をしていた、BC6世紀のバビロン補囚時代に、すでに存在していた2章以下のJ資料(ヤーウェ伝承)失楽園物語に、P資料(祭司伝承)と呼ばれる、この天地創造の文を、モーセ五書の序文として追加し編集されたと言われています。
異国の厳しい環境の、苦しい捕虜生活の中で、どうして、このように、この神の創造された世界を「良し」と楽観的に、是認することが出来たのでしょうか。普通であれば、苦しい補囚の生活から、神を恨み、悲観的な考え、黙示録的終末観に落ち込むのに、どうして、このような希望的な世界創造観が持てたのか、本当に不思議なことです。
ユダヤ教の信仰は、敗戦により、民族としての誇りも、国土も神殿も全て失った、この補囚期の、民族として一番苦しい時期、絶望期に、確立したと言われています(※1)。
この国家が滅亡した、危機的状況の中でこそ、ヤーウェの神が彼らを見出し、救いとして彼らの上に臨んだのです。神に背いた歴史を反省し、その絶望の中に初めて、救いと希望の神の恩寵を見出します。その感謝の思いが、神の造られた自然と人間について、讃歌として溢れでたのでしょう。そのリバイバルの喜びに満ちた、信仰告白が此の第一章に違いありません。
イスラエルの民は、絶望の淵から体験した、この神と世界への全面的肯定と信頼、そして不屈の希望があったからこそ、どんな迫害のどん底の中でも、2000年の流浪の苦しみを耐え抜くことが出来たのでしょう。
本当の信仰とは、こういうものなのでしょう。苦しい時程、神のみわざと、人間を信頼し、賛美する出来ること。時には挫折することはあっても、現世に絶望せず、その根源を「良し」と信じ、肯定して生き抜くこと。この精神が、この創世記の第1章に確信として流れているのではないでしょうか。
天変地異、世界を覆う民族間の憎悪、子供や弱者の迫害と不正と腐敗。これらの不条理の世界に、果たして神は存在するのか、人類に希望はあるのか。この問いに、創世記第1章は私たち人類に不滅の希望を与えてくれるのではないかと思います。永遠の書、聖書にまことに相応しい序章です。
み言葉による天地創造
なお、天地創造前、原初の状態「地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。」2節。そして3節「神は言われた」「光りあれ」と。この神の『言葉』によって「光り」が意志的に結集して、この壮大な天地創造が開始されたとあります。
神の「御手」によって、天地が造られるだけではなく、神のご意志が「地はそれぞれの生き物を産み出せ」24・b、という「み言葉」として発せられることにより、天地の自発性が喚起されて動き出し、産み出されたというのです。神の意志、「霊」が、『言葉』を通して呼び掛けると、万物が感応して創造され、今に続いているのです。(次の2章では、神が人間を土の塵で形づくったとあり、矛盾していますが。※2もう一つの天地創造記)
この意味は、私たちの宗教は、神が「御言葉」により、「啓示」される宗教であるということが出来ます。ただただ、有り難や有り難やの心霊宗教ではない、ということです。混沌とした心霊的状況から、神の理性的意思「み言葉」(※3ロゴス)
により、神の力「霊」が働き、この世の万物が「良きもの」として創生されたというのです。
しかも、私たち人間は、この神の似姿として「神自身にかたどって」「男と女に」造られたというのです。万人がすべて「神の子」なのです。クズも尊卑、性差もないということです。素晴らしい人権平等宣言です。人間の尊厳の所以を述べている一番重大な箇所です。聖書の核心ともいうべき思想です。
神と人間、世界の調和と素晴らしさ、神の人類愛を物語る、この第1章がこの旧約聖書の、重要な第一主題です。そして次章2・3では失楽園、「神への背き」が第二主題として現れ、時折変奏されながら、神と人との壮大なドラマが、交響曲が展開されてゆくのです。創世記1〜3章は、この二つの主題を紹介する序曲ともいって良いでしょう。そして、最終楽章は、言うまでもなく、新約聖書なのでしょう。
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※1.個人の信仰も、絶望の底にある時にこそ、神の恩寵として与えられると言います。
※2.もう一つの天地創造物語(2・4b〜25のヤーウェ資料)―聖書の多義性
2章の天地創造物語は、神は天と地を造ったが、地には未だ何もなかったので、水を地下から湧き出て地を潤し、木を生えさせ、地を耕す人(男)を、土の塵で形づくり、「命の息(霊)を吹き入れ」命を与えて、エデンの園に住まわせた。しかし「人が一人でいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう」と言って、男のあばら骨から、女・エバを造った。そして、3章の楽園追放の話となっていて、古くからあるメソポタミヤ地方の伝承から来ているといわれています。
この1章と2章のように、前後の話の辻褄の合わない箇所は、この他、聖書には所々あります(参考、佐倉さんの「聖書の間違い」)。これが聖書の特徴で、物語を通じて理念(神学)を述べています。個々の語句の文字通りの解釈にとらわれず、神学的意図、その両義的主張を読み取ることが要求されます。あえて事柄の整合性を求めない多義性、これが、聖書の面白さで、「聖書は人生に似ている」遠藤周作、と言われる所以です。
※3.ロゴス、ヨハネ1章
「初めに言葉があった。言葉は神と共にあった。言葉は神であった。この言葉は、初めに神と共にあった。万物は言葉によって成った。成ったもので、言葉によらずに成ったものは何一つなかった。言葉の内に命があった。−−−−」ヨハネ福音書1章1〜の有名にして、難解なロゴス論が展開されています。この意味する所は、言葉によって天地が創造されたという創世記1・3と同じこと。そして、キリストは、天地創造以前から、「言葉」として存在した、という「キリスト先在論」です。
一方、箴言(BC10〜5)8・22〜31では「主は、その道の初めにわたし(知恵)を造られた。いにしえの御業になお、先立って。永遠の昔、わたし(知恵)
は祝別されていた。太初、大地に先立って。わたしは生み出されていた。深淵も水のみなぎる源も、まだ存在しない時。−−−−」。シラ書24・9にも、「この世の始まる前にわたし(知恵)は造られた。わたしは永遠に存続する。」とあり、「知恵」が先在していたという考えが古くからあります。「霊」「言葉」「知恵」「キリスト」が宇宙世界の創造以前の根源的存在であるという考えです。
※4、肉食動物はいない?
創世記では、全ての動物は、原初の状態では、草食とされています。
1:30
地の獣、空の鳥、地を這うものなど、すべて命あるものにはあらゆる青草を食べさせよう。
イザヤ書でも、究極の平和理想郷では、凶暴な動物も、草食になる、としています。
65:25
狼と小羊は共に草をはみ/獅子は牛のようにわらを食べ、蛇は塵を食べ物とし/わたしの聖なる山のどこにおいても/害することも滅ぼすこともない、と主は言われる。
命あるもの同士が共食しあわないのが、理想の平和状態、神の国としているようです。