サダキチ・ハルトマン
アメリカにおける初期文学作品(1895−1916年)
“それがどのように起こったかを私が語る前に、じっくりと私を見てください。この貧弱な容姿、頭蓋骨の造り、目の位置、顔立ち(特に上あご骨)、肌のきめ、髪の毛、しぐさ、声の調子のどこかに、東洋的な印象を見いだしますか? 今までに私に似た日本人に会ったことがありますか? ノーでしょう。生物学的に不可能だからです。このような突然変異は、素材が正しく揃っていなければ起こらないのです。”
サダキチ・ハルトマン『若者がミカドの衣装を被るー告白』より1
はじめに
アイデンティティーとは、サダキチ・ハルトマンに関する私の評論で定義したように、生まれ持ったものと培われたもの両方により決定される(リチャード2000参照)。私たちは一つの環境に生まれ、それを生き抜くか、そこから逃れるか、および(または)遺伝的項目に加えるかを選ぶのである。アイデンティティーの生まれつき確定した面を、しばしば抑制しようとしたり、死ぬまでに部分的に変えようとしたりするけれども、完全にそこから脱却することはない。結局は、必ず元に戻る(going back)か郷に帰る(coming home)であるように思われる。遺伝子が追っかけてくるし、老人としてのぎらぎら輝く悪趣味の中に戻る。サダキチがその例外ではなかった。
アイデンティティーの培われた面は全く別の問題である。進化論者ダーウィンの説である適応の過程を通して、私たちはもう一つの的となったアイデンティティーとの関係の中で変化する。このアイデンティティーは真ともな擬勢で、私たちが文化的、芸術的、金銭的な目的を纏って進歩するため作られていくものである。
日本の評論家たちは、日本国民というアイデンティティーを生まれ持った人々が、期間は異なるが国外に一時滞在した後、その国の文化によって脅されたり危険に陥ったりしたと感じ、自分自身の本来の姿を取り戻すために帰国を決心するという点について論じたがる。永井荷風(1879-1959年)や谷崎潤一郎(1886-1965年)といった現代文学の巨匠たちは二人とも、外国に一時滞在したことや、西洋文化から外面的に影響を受けた人生を過ごした彼らと同時代の日本人について小説的な作品を執筆した。彼らは生まれ持った日本人としてのアイデンティティーの気楽な境界を越えることなく文学作品を多く執筆した。
明治時代(1868−1912年)のもっとも偉大な作家である夏目漱石(1867−1916年)や森鴎外(1862−1922年)などについても同じことが当てはまる。漱石はイギリスに、鴎外はドイツに一時滞在した。報われない恋や潜在的な同性愛、三角関係などを扱った漱石の小説がいまだに興味深く読めるのは、彼が過ごした時代のイギリスがヴィクトリア朝で虚構を好む風潮であったことによるところが大きい。鴎外は、『舞姫』(1890年)という魅力的な短編小説の中で、日本人男性とドイツ人踊子との幸せな結末ではないが報われたラブストーリーを題材にした。しかし漱石も鴎外も生まれ持ったアイデンティティーの避けられない境界を越えることなく、そして日本語という母国語で、文学作品のより偉大な人物像を書くために帰ってきた。
日本の評論家たちはいったん作家が日本に戻ってくると、今述べた事例を、放棄した西洋とのささいな小論争とみなす。ほとんどの評論家たちは、日本生まれの純粋な日本人でありながら、海外生活の経験により培われたアイデンティティーをさらに身につけた人々や、例えば日本語以外の言語で書く作家たちのことを評することはない。混血であることや混ざったアイデンティティーを持つことは日本の評論家の興味を引かないようだ。
しかしアイデンティティーと混血との関係はどうなのだろうか? 培われたアイデンティティーの視点から作品を書き成功した作家の例があるだろうか? サダキチ・ハルトマンという人物は、そんな作家の一人である。1867年に長崎の出島で生まれた彼は、ドイツ人と日本人の遺伝的に混ざったアイデンティティーを持つ。彼は大人になってからの人生のほとんどをアメリカで過ごし、ドイツ語と英語の両方で作品を書いた。彼の生まれ持ったアイデンティティーはアメリカ文化の境界の中にすっかり包みこまれてきた。ハルトマンが生まれ持ったアイデンティティーは、時が流れても外観の姿を装っているが、一方でアングロサクソン系のアメリカ人という後天的なアイデンティティーが彼の人生を通して優勢となり、クロスオーバーした個性となった。やはり、かれが突然変異体であった。
サダキチの初期の文学作品は1896年から1918年の間に、主にアメリカのボストンやニューヨークで書かれている。アメリカで培われたアイデンティティーが現れ、日本人の遺伝的アイデンティティーが徐々に放棄されていく様子が、それらの作品から知ることができる。放棄するきっかけは、ごく初期の詩や短編のほとんどに現れている。過去を捨て、新しいアイデンティティーを身につけるという感覚は、放棄しつづけることの恐れと共存する。一方、途切れることなく培われたアイデンティティーの方に進んでいく人間の淋しさは、ロマン主義や象徴主義的な詩的概念から生まれる満開の性的欲求と共存する。相次ぐアイデンテイテイーの数々と同じようにサダキチは転々と女性にあったり、離れたりした。
ここでは、サダキチのごく初期の短編や詩の中で良質の作品をいくつか紹介し、作者の変化の過程でのストレスや喜びを探しながら考察する。
1. 『灯台で過ごすクリスマスイブ』(1895年)。 『空中のショーペンハウァー』(1908年刊)p15-18より。スタイラス出版社(ニューヨーク州ロチェスター市)。
2. 『さびれたコテージ』(1905年?)。 『セントルイス・ミラー』新聞に掲載の短編。p7。2
3. 『小さな道端の駅で』(1906年9月)。 『マザー・アース』Vol.1 no.7 p56-60。
4. 『私のルバイヤート』(1916年)。 ブルーノ・チャップ・ブックス社(ニューヨーク)。3
『灯台で過ごすクリスマスイブ』(1895年)
『灯台で過ごすクリスマスイブ』はサダキチの自叙伝的な話であるが、仕事や報酬を求めて始めた都会暮らしから、はっきりではないが一時離れるという流動的な生活の中に慰めを求めるところは、文学的な芸術性のベールでうすく覆われている。この短編の製作年である1895年に、サダキチはすでに『ウォルト・ホイットマンとの対話』を出版していた。それは、一時期親交のあったホイットマンから聞いた、東海岸で活躍する他の主要な文学界の人物たちを激しく非難した話を一字一句記録した本だったので、ホイットマン死後の財産管理人(彼は最近亡くなった)を中傷するものであった。この本が実質的に失敗に終ったことで評判を落とし、自分の作品が主流派から拒絶されているという感覚におそらく馴れていた彼は、ぽつんと立つ灯台までボートを漕いで行く。そこから彼は自分の苦境を再認識し、海の静けさや白さの中に一片の純粋さを捕らえることができるのである。彼は「波が打ち寄せる切り立った岩ぶち」に立つ「孤立しているが孤独ではない」彼の灯台を見つける。(『灯台で過ごすクリスマスイブ』p.15)。
「ぞっとするような多色づかいの夏のコテージがある村は1マイルの範囲内で、そのばかげた建物に私たちの時代のアナキズムを反映していた。」(同p.15)
上に近づく世界はどういうわけか心を乱したり、騒がしかったり残忍である。その詩人が視界から遠のいていく世界を振り返りながら離れていく様子は、『万葉集』(750年)にある山部赤人(?−736)の和歌を思い起こさせる。田子の浦の湾から漕ぎ出して、頂きに雪を冠した富士山のけがれのない形を見て歌った和歌である。
田子の浦ゆ うち出でて見れば ま白にそ 富士の高嶺に 雪は降りける4
富士山の白さに魂が目覚めたことに驚いた山部赤人のように、この著者も灯台を囲むデッキの上まで出て行く。暗くなってきた海を見つめ、彼の下にある岩々にすさまじく砕ける波のとどろきを経験する。
「波が打ちつけるたびごとに、とどろきや荒々しさはさらに激しくなる。当て所も無い煽動をののしるようにシューと音をたてる水は、姉妹のような波が斜めに激しく近づいてきて交差し、様々な方向に投げ返される。」(同p.17)
著者が逃げ出した混沌とした都会の生活が無意味であると思われるように、都会からの分離が劇的に変えられるまでは、波や風もまた彼の耳や髪を厳しくかきむしるのである。
「夢を見ているように混乱して目をそらすと、一つの白い点が私の方にすばやい動きで向かって来るのが見えた。1羽のカモメが羽をはばたかせて、ランタンの光に誘い出され、まっすぐに突進してきた。まるで孤独な人間の魂が、穏やかな家庭の美しくやさしい光の中で休むための港にたどり着くよう、利己的な熱意と戦いながら幸福に向かって盲目的に突進してくるようだ。次の瞬間、カモメはビーコンの光の厚いガラスに頭をぶつけ、もだえ苦しみながら私の足元に落ちてきた。
不幸なその鳥の柔らかくて白い羽毛に触ろうとしてかがむと、少し前のその瞬間だけが活気溢れる喜びに満ちていたのだという絶望感が私を襲った。波が上下し風がうなり声をあげるこの世界の中では、美しい何かを創造しようとするこの努力はすべて全くむなしいものなのだ…。拳銃やロープやパリスグリーン<有毒な殺虫剤>を使ったこの悲劇の芝居からのつまらない退場ではなく、永遠への英雄的な喜びを自覚して喜ぶために・・・。」(同p17)
少しの間、著者は死の方に引き寄せられたり引き離されたりして、生死の淵に立つことからくる、疲れるけれども気分を浮き立たせるような我を忘れる喜びのひとときを経験する。
「私はまだ自分の感情を荘厳な嵐が襲った頂上まで無理に高めようと努力していた。そこで人は喜んで死を包含するが、私の思考力はすでにそれ程高くないところまで戻ってしまっていた。なぜ貧しく老いぼれた死すべき物が私達の存在にまとわりつくのかを私は理解するようになった。人生の荒波の中でもがいたり浮かんだりすることさえ、多くの技術と強さが必要であるのに、その中で消滅するためにどれ程超人的な勇気を持つことができるだろうか!」(同p18)
『灯台で過ごすクリスマスイブ』でサダキチは、彼の回りにある自然の無常な力と、洗練された芸術性の唯一の美しい瞬間とを戦わせる。それは目をくらませる灯台のビーコンの光に衝突することで永遠と出会う白いカモメのように、彼は家庭や健康から生まれる満足への偉業を寄せ付けない死から引き離す。つつましい努力が天才を克服するのである。著者は灯台の部屋とタネンバウムやクリスマスの御馳走を共にする家族の暖かさの中に戻る。彼は人生の平凡なことに満足することができる。
この初期の作品はサダキチの最初の変化となったのが何であったのかの種が含まれている。つまり日本人のアイデンティティーの側として生まれつき優勢なものを受身で観察することから、天才のひらめきの可能性や心からの確信の力により定義された本質の範囲で自分の道を見つけることに満足するようになる。彼は神の霊感や天才という西洋の概念の範囲で日本人のアイデンティティーを含む方法を探している。『美的真実』(1927-33年)という原稿(未出版)の中では、二つの文化の極性の間にある彼の哲学的な見解の要点を多少述べている。
「私が個人的に自分自身を哲学的に表現することを主張するなら、経験主義に傾いていると言える。上り坂の荒れた道を曲がるたびにずっと、多くの原因である世界や人生の実践的な解釈、単純化できない多様性や移動性の現象、反宗教的、懐疑的で、しかも理想主義的な多元論のシステムのほうに動くのだ。」5
純粋な西洋の本質についての力や信念については、例えば画家マネの中に見出せる。サダキチはこう述べている。
「33年間、死ぬ1883年まで、彼(マネ)はただ完ぺきな表現力が出来るまで努力しただけだった。そのような戦い方には栄光があり非常に高貴なものがある。つまり最後に、完全武装の軍服で、戦いの場で死す―。
その男の中にはどれ程燃えたぎるエネルギーがあったのだろう! 彼は‘すべての境界線を跳び越え、自分たちのゴールに向かう翼を持った馬たちのたくましい騎手’の一人であり永久に戦いつづける男たちの一人であった。彼らは血を騒がせ、抑制されることなく情熱を燃やし、抵抗しつづけ、世間が認めたいかなる権威にも屈服したりすくんだりすることなく、50歳でも、若い頃の夢と同じように反抗精神や情熱や熱狂の心を持っている。」6
サダキチはアイデンテイテイの旅に出たのであった。自らの小さな一歩であるが、彼の芸術性にとっては大きな飛躍であった。あるいは、この物語は私たちにそう信じさせるものであるだろう。
『さびれたコテージ』(1905年)
『さびれたコテージ』はセントルイスで発行されていた新聞『ミラー』に掲載された作品で、カリフォルニア大学リヴァーサイド校のハルトマン収集品の中に1900−1905年の他の資料とともに切りぬきとして保存されている。この作品はサダキチが作家として、また個人としても変化した様子を知る最高の手がかりである。6歳になる前に自分のルーツである日本の長崎から引き離され、14歳のときにドイツのハンブルグで家族から勘当され、アメリカのフィラデルフィアではドイツ系アメリカ人の親戚からみじめな待遇を受け、再び見捨てられた彼は、何度もアイデンティティーの危機にさらされることを強いられてきた。一つ一つが彼の潜在的な記憶や光や影の跡、そして触覚の反応の中に深くとどめられている。
『さびれたコテージ』の中でサダキチは、人の住んでいない2階建ての家という形で、失われた日本人としてのアイデンティティーに出会う。セントルイスの草原のようなところを歩いているときに、その家を偶然発見するのである。
ある日のこと、人中にいた後に語り手が歩いていると開けた道路に出る。そこで彼はまったくの一人ぼっちになるのだが、それは幸せな場面として描かれている。やがて語り手は人の住んでいない家の向かいまでやって来る。窓は壊れ、門の蝶番はさびついているが、玄関への小道には草が生い茂っている。ドアにはカギがかかっていない。庭にキリギリスがいるという描写は日本での記憶であり、オニユリは着物の柄の想い出である。(Right!! Katydid is not a cicada!)
「かつて庭だったところはオニユリが咲く広い野原に変わっていた。厚くて柔らかい下草がぎっしりと生え、オレンジに近い赤色と濃い緑色の美しい景色であった。
私は、立入り禁止のその邸宅に入りたいという奇妙な欲望にかられた。かつて小道だったところに沿ってゆっくりと進み、オニユリを1本折って、その大きな金色の花粉嚢を細かに調べた。私の回りのいたるところにキリギリスがいて、かん高く終りのないメロディーを奏でている。それはなにか風変わりな弦楽器で演奏される東洋の耳障りな音調のようである。」(『さびれたコテージ』p7)
サダキチの描写は秋にキリギリスの騒がしい鳴き声がするという日本の庭に非常に良く合っている。東洋の耳障りな音調や弦楽器というのはたぶん琴や三味線のことだろう。彼はよく女性の情熱的な愛や過ぎ去った時代の美しい夢想を引用するときに花の名前を使っている。例えばここで、サダキチの『暁の花』(モーリス・メーテルリンクへ)という詩の第3連(最後の連)を紹介しよう。‘暁の花’とは、おそらく日本のアサガオと関係があるのだろう。それは失った、あるいは放棄したアイデンティティーを象徴するものである。
「私たちは知らない、私たちは知ることができない、
それらすべてが私たちのためにここより下に残されている
(‘歌も歌い手も時代遅れ’だから
そして夢想は同じような運命と出会っていたから)
暁の花が育つところで
夜明けの風が吹く中で、
夢破れた人生のむこうに朝の光線が射すにつれて
回りを取りまく赤熱の中に月をおぼれさすために。」7
上の短編にでも、オニユリが日本の伝統的な詩歌の場合と同じように、後悔せず自らの意志で人を愛する若い女性の情熱を示している。
『さびれたコテージ』で、サダキチはもう二度と取り返せない想い出のかけらである、失ってしまった日本や母のイメージを見つける。
続いて、語り手はその家の中に入り、クモの巣でいっぱいの暖炉を見つける。すべてが荒れ果てている。床は土である。彼は2階に上がって行く。恐れや、何がいるかわからない怖さがないわけではない。
「どんな子供がこの壊れそうな階段を昇り降りして跳ね回っていたのだろう? どんな女性が階段の手すりに手を置いて、階下で起こる様々な家庭の場面を静かに見ていたのだろう? 私には名前の無い服の衣擦れする音が聞こえるように思われた。」(同)
語り手はかつてその家に住んでいただろう母親の魂を呼び起こそうとしている。そして壊れそうな階段を昇り降りする子供を想像しようとした。無駄なことなのだが…。その子供は日本にいた頃の自分自身であり、その母親はサダキチの母であった。彼の子供時代の日本では個人住宅が1階建築に限定された。おそらく母が父を紹介された場である長崎の丸山遊郭には2階建ての建物があり、庭がよく見えるその2階は、世話を申し出たパトロンだけが出入りを許され、男性客を楽しませるための個室があった。日本の売春宿では2階が享楽の場であった。サダキチは自分の幼少時代のあいまいなエピソードを覚えているのだろうか?
2階での場面はまた、もっと不幸な数年間を過ごしたドイツの家のようでもある。
「壁紙がちぎれて、たれ下がっていた。天井からは壁土が落ち、屋根の木造部分が見えていた。敷居はガやハエの死骸で覆われていた」(同)
これもまた、サダキチがアメリカにやって来た時に放棄したものだ。彼はあたかもドイツでの部屋が現在に移動したような幻想を見ているのだ。
その日が終りに近づくにつれて、語り手は、2階であるドイツから見ているように窓から外に広がる遠くの野原を見つめ、その家の向こうの野原と同じように庭にいるキリギリスである日本を見つめ戻す。夕焼けの描写は、白と赤という日本国旗の色合わせである。
「地平線は何か白い液体であふれているように見えた。その中で血のように赤い太陽の円盤が急に薄暗くなったので、それが深く深く、刻一刻と沈んでいき、ついには見えなくなるのが現実にわかった。キリギリスの歌は今までよりも大きくなり、さらに耳に強く響くように思われた。」(同)
日本を象徴するようなその騒音と鮮明な色が語り手に重くのしかかる。サダキチの答えは、エドガー・アラン・ポーのようにゴシック派の表現方法に似ている。サダキチは彼を高く評価し、詩歌や美意識についての講演の中でよく取り上げていた。
「憂うつな感情が私を襲っていた。私の中にアヘンのけだるさが入りこんでいた。そして私はこの場を離れたい欲求を感じた。それにもかかわらず私は床に根をおろしたように動かずに立っていた。」(同)8
サダキチは、ポーの言い回しを使って彼自身をこの見捨てられた場所から逃れるための地点まで連れて行った。ちょうど彼が日本人とドイツ人のアイデンティティーを放棄して、アメリカ人のそれを選んだように、コウモリが羽をパタパタ動かすかすかな音に逃れるためのカギを見つける。ポーが書いたゴシック派の多くの物語と同じである。語り手は不幸せな過去のあいまいな記憶のために、彼にとってドイツであるその家から飛び出し、日本を表わす庭を走って通り抜け、アメリカである高速道路に戻り、突進して現在まで達する。
それから『さびれたコテージ』の最後でサダキチは、そのコテージにいる間に経験したすさまじい恐れは、死への恐れや不確かな人生への恐れによるものであるという、少し哲学的な思いにふける。彼はこう述べている。
「この悲しみの思考は疑いもなく考える心に陥るかもしれない。あるいは今でも記憶にある幼い頃の日々のように、夜中に目が覚めたまま横になっていると、子供部屋のカーテンの模様が恐ろしくぞっとする形に変わる妄想を抱くことがある。その子供の小さな手が私達にそっと触れたり、その女性の手が私達を抱きしめたりしたこの悲惨な思考は、他の経験のように、すべて永遠のために失われるだろう。たとえどんなに暗闇の中で腕を前へ伸ばすことに強くあこがれても、私達は決してそれらを再び呼び戻すことはないだろう。
絶対なる拒絶、絶対なる信頼――私はどちらも持たない。私の推理力は自分のアイデンティティーを失ってしまったとき何も回想できるものはないと自分に言うことである。それにもかかわらず私たちが存在と呼ぶものの範囲を越えた何かがあるかもしれないと、私は熱烈に望んでいるのである。」(同)
未来の方を見ながら語り手としてのサダキチは、アイデンティティーの境界を越えることに伴う危険を認めている。そして最終的な変化だと決めることや、あるいは安定したアイデンティティーを見つけるという永久に終らない課題を認めている。アイデンティティーは変化であり、それは終りなく変化し続ける。
「これは死の恐れである。ある者たちはそれを認めることが恥ずかしいかもしれない。しかし人生とは必ず死が訪れるものである。このような考えが起こる時はいつでも感傷的な後悔の感情に負けてしまう。」(同)
『さびれたコテージ』では、サダキチの他の文学作品と同じように、過去や将来や安定したアイデンティティーの問題について、少ない言葉で多くを述べている。そして『美的真実』での彼の記述が証明するように、この作品は荒廃した場所の描写をもって、知的で、個々の判断を快く許せ、芸術的で美しい喜びを吹き込む趣で出来ている。
雑誌『マザー・アース』からの作品(1906-08年)
『マザー・アース』はニューヨークで1906年3月から1917年8月まで、エマ・ゴールドマンにより継続的に出版されていた。アナキズムや女性の権利についての彼女の評論を公開する場として作られたものである。しかしその雑誌は一流の独創的な詩や短編を発表したり、トルストイ、ゴーリキー、ニーチェ、オスカー・ワイルドのような作家の作品を抜粋して掲載したりした。例えば目次を見ていると、オスカー・ワイルドの『レディング刑務所の印象記』という作品が掲載されている。9
サダキチ・ハルトマンは、その多様な出版物が証明するようにきわめて質の高い文学作品の出版社でもある『マザー・アース』の中に数ページ、初期の短編作品を発表する場を見いだした。
『マザー・アース』に掲載したサダキチの作品の一つに、『小さな道端の駅で』(1906年)がある。旅回り劇団で‘スブレット’と呼ばれる小間使い役しかつかない若い女優が、アラバマ州メキシコ湾岸部の淋しい駅で汽車を待つ間に、自然との短い出会いがある。初めて、劇場という人工的なものや、楽屋、舞台の上、薄汚れたホテルの部屋だけで生活している不自然さが、夜の空気の香りに彼女が引きつけられるという現実の経験に置きかえられる。
サダキチはその香りを思い出すきっかけとするのに日本人や仏教の概念にたよっていた。古今和歌集(905年)の中で最も有名な和歌の一つに、夜に香る橘の花の香りについてのものがある。その花を見ることはできないけれども、とても良い香りが漂い、今は亡き昔の恋人が着ていた着物の袖の香りを思い出すというものである。
五月まつ 花橘の 香をかげば 昔の人の 袖の香ぞする
読人しらず10
「この不思議な夜の景色の中で黙想にふけっていると、不意に空気の中に漂うかすかな香りに気づく。どこからくるのか分からない程あいまいな何かの香りに突然気づく時ほど五感を刺激することはない。それはまるで前世を思い出すようでもある。」(『小さな道端の駅で』P57)
そのかすかな香りは茎の長い花のものである。彼女はその花を腕一杯持ち帰り、少しずつ分け、劇団の人たちに自分の分を取るように言う。彼女は座って花を胸のところで抱えている。
「月も星も出ていない。形はすべてお互いの中に消えてしまった。すべてのものが動いていないようだ。ただそよ風だけが恋人の指のように、彼女の髪とたわむれる。その風は海の遠くかなたからやって来た。そして谷間谷間をさまよい、ヤシの木々の林を越え、おそらくオレンジの果樹園を通り、内陸の旅を続けてきた。ちょうど他人の喜びのために地球をさまようホームレスの人々のように・・・。一隻の船を遠方で認識できるようになった。彼女は忘我の境地で身動きせずに座っていた。」(同)
彼女は自分の演技力を越えるようなこれまでの記憶に無い経験をした。その世界で初めての官能的な経験であった。彼女はそれから何が生まれるのかを知っている。
「その時突然、一つの啓示が彼女に下りてきた。おそらく通りすぎる風か、目立つ花の香りのせいである。そう彼女はともかくもステージの上に、彼女自身の心の経験から生まれ、自然の要素と調和した本物の感情を持ってこようとするであろう。彼女は人生の大きなステージの上に立ち、自然の暖かさや喜びにふけり、もがき、苦しみ、すべてを経験し、そしてそれを芸術に変換しなければならない。」(同p59)
正確に言うとサダキチの信条は上に書いている通りである。経験し、それを芸術に変換することである。物語が終りに近づいて、汽車が到着し出発する。その若い女優は、「脂ぎった顔をした低俗な男たちと女たちとのむっとする諷刺漫画のような」現実の世界に戻る。その客車は美しい風景をさえぎりながら単調な地色を現実の世界に配していた。ここでサダキチは彼の芸術的な人生の中心となる考えを示す。
「私たちの人生において、誰もが偉大なことを成し遂げるだろうと夢見る瞬間がある…。しかしほとんどの瞬間が、その若い小間使い役の女優が涙にぬれた顔をうずめた名もない花のようにしおれてしまう。私たちはみんな自分の役を演じるのが上手ではないし、時には硬すぎたりする。そしてギラギラとした利己的な欲望が私たちすべての上に不自然な光を投げかける。しかしこれらの実現されない望みへの夢はとても美しく、記憶の中でそれらを大切にすべきである。それらの夢だけが生きることに値する人生を作り、私たちがその夢を実現するか否かは問題ではない。」(同)
理想主義とこの若い女優の純粋な希望は確かに、『マザー・アース』を出版していたエマ・ゴールドマンの夢と似ている。サダキチは『小さな道端の駅で』の中で適切な見解を述べていた。この物語は後に、その雑誌から他の作品と一緒に再出版された。それらの物語の中で労働者階級を擁護することはサダキチの心の中にある考えを強化する手助けとなった。つまり現実的な環境を越えて生き、クロスオーバーし、次のステージで戦うためには、人が現在の向こうに行く可能性があるという考えである。繰り返される模様の終わることのない変化は、ジャカード織りや機で織った帯の繰り返し模様の中に色の濃淡をつけるように、これらの作品の中でも繰り返される。
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『マザー・アース』に掲載したサダキチの作品はすべて、感覚による認識力を信頼することができるという真実を指摘している。そして大変強い瞬間的な経験が私たちの変化を次のステージ、さらに次へ、そしてファイナルへと向かわせることで、人生のステージを通して進歩するという真実も指摘している。『マザー・アース』の創設者であるエマ・ゴールドマンは、社会、文明、人生を変えるためには、大いなる熱意を実現してこそより良くすることができると信じていた。サダキチもエマ・ゴールドマンも20世紀にやってくる感覚的革命を信じていた。彼女は女性解放運動の真の成果を経験することもないままアメリカから追放された。サダキチは残ったが急進的な政治運動から他の方面へとゆっくり移って行った。
終りに
サダキチは講演や評論の中でウォルト・ホイットマンの純粋で開放的な叙情的スタイルを擁護しつづけた。しかし彼は、その当時のヨーロッパの詩歌に共通する官能的でロマン主義的な象徴主義者の表現方法を代わって好むようになった。それは、『マザー・アース』に作品を掲載していたその次の時代になって作った詩歌に、より大きな役割を果たしている。
1915年までにサダキチは‘気味悪い踊り’をする男になっていた。エマ・ゴールドマンが彼女の記憶の中で彼のことをそんな風に述べている(エマ・ゴールドマン著『我が人生を生きる』41章)。彼は人を楽しませることが好きだった。マンハッタン南部に住む若い芸術家たちのグループに賛同して、急進的なユダヤ人の知識階級からは離れていき、道化、大ほら吹き、ペテン師を演じる方向に向いていた。‘ボヘミアンの王’として知られるようになり、ワシントン・スクエア地区にいるアヴァンギャルドな芸術家や画家と親しくなった。
サダキチが画家であるリリアン・ボーナムとニューヨーク州のイースト・オーロラにあるエルバート・ハバードのロイクラフト・コロニーで出会ったときには、彼の最初の妻であり詩人であったエリザベス・ブランシュ・ウォルシュとは破綻していた。1915年までに彼はニューヨークに戻っていて、ボヘミアンの一人としてワシントン・スクエア南58にあるグイード・ブルーノ氏の屋根裏部屋にいた。『マザー・アース』でのつながりよりはおそらく政治的な強さが薄れた自由な雰囲気の中で、1916年に同氏のブルーノ・チャップ・ブックス社から、6行連の詩が75作品集められた『私のルバイヤート』をシリーズで再出版した。そのタイトルが示すように、それらの詩はセックスや快楽や情熱についてのものであった。それらは西洋のロマン主義のイメージほど極端でなく、万葉集(8世紀)や古今和歌集(905年)のような古典的な和歌集に見られる日本人の洗練された情緒の変形としてとらえることができる。
1904年にサダキチが出版した日本の詩歌についての評論は、おそらくアメリカでは初めてのもので、日本の詩歌とヨーロッパの経験との本質的な違いを明らかにしている。
「日本の詩は完全に‘叙情詩的’な感情で制限されている。日本の古典的な詩人は、わざと教訓主義や諷刺を控える。演劇や小説ではきわめて重要な役割を果たす戦争への賞賛さえ、彼らにとっては詩的要素を含んでいないらしい。彼らの詩の中には、怒りも絶望も熱狂も憎しみもいかなる種類の暴力の感情もない。反乱や改革の旗手でもない。」11
『マザー・アース』でのサダキチの作品は、彼が実証するように日本の詩歌に重要な‘叙情的’な感情を呼び起こすことに向けられていたのに、その雑誌は急進的な社会主義や政治的な議題の文脈の中に置かれていた。彼が作家としてエマ・ゴールドマンとずっと関係を続けていくことができなかったのはここに理由があると思う。サダキチは生まれ持った日本人のアイデンティティーは実際には放棄していたが、潜在意識にいまだ残っていた霊感を五官で感知する源のためには再び変わることが必要だった。しかしドイツで過ごした数年の間に2番目の大きな変化を受け入れたヨーロッパの伝統とは対照的かつ相対的であるように見える。彼は他でも日本の詩歌についての評論を残している。
「日本人は、恋愛の詩歌を作る。それは、悲しみやあこがれをうたうヘリックの詩ともかすかに似ている。アイロニィーの無いハイネに似ていなくもない。アナクレオンさえ恥じないような女性とワインへの熱い賞賛がある。オマル・ハイヤームの‘バラの香りがする’4行連詩のかすかな反復のように響く人生の無常を超えた哀歌である。」12
ここでサダキチは芸術的な見方を示している。ペルシアの詩人オマル・ハイヤームのように、また恋愛の詩歌を作る日本人の感覚のように、『私のルバイヤート』という詩集は『マザー・アース』での作品の特色を繰り返し、精製している。ここに2つの詩を紹介しよう。
1)『小さな道端の駅で』の中にあるように、町や劇場といった作り事の世界に戻った時に、自然が持つ本物の癒しの力がテーマ――13連
「ああ、その歓びは決して続かない、
私たちは妖精の住む森を後にしなければならない
大きなハイウェイを通って。
地平線が手招きするのと同じくらい、
私たちが追いかけると、ますますそれらは逃げ去っていく
その距離まで私たちは決して達することはできない。」(『私のルバイヤート』p87)
2)『灯台で過ごすクリスマスイブ』の中にあるように、町からの逃避がテーマ――19連
「ああ、町から逃れるために、
青くゆらめく夜の中に、
私が愛することができたすべてを語る、
私がたまらなく会いたかったすべてを語る、
理解するために、所有するために、感じるために―――
なぜ、それ程わずかしか私のところに来なかったのか。」(同)13
サダキチの文学的変化は1920年代1930年代を通して続いた。彼は美術や音楽や文学の気に入った話題をテーマによく講演を行った。彼の好きな話題の一つに『少数による少数のための芸術』というのがあった。この話題やタイトルは、『美的真実』(1927-33年)の序文から来ている。その原稿には芸術や美の歴史に関する彼の見解が述べられている。そこに次のような名言がある。
「証明したかった定理、作品の主な目的、独裁政治に群がり異議申し立てをすることは、8語で表現される」14
サダキチはその序文の中で他にも自分の哲学を述べ、美を定義している。
「美とは、豊かで深い感覚として心を驚かせる自然または人生に起こることである…。芸術はそのような美の感覚を征服することである。あいまいだが強い心及び感覚は切迫しているほど表現を促すので、もし最初の型と違った具体的な型に幸いにも変えられるなら永遠への望みは可能となる。 そうすると、同情する他の人々の髄脳にアピールする力もある。(同p18)
サダキチはかつてに言ったように「多くの人のように、私は‘遅く晩餐する運命にある’しかし‘食堂ホールは十分明るく、数少ない、選ばれたゲストがいるに違いない’。」と述べていた。15
そのような記述の中で、自分の本質がショーペンハウァーやニーチェのようなドイツの哲学者と同じく、アメリカでの生活の経験により培われてきた広がりをサダキチは明らかにしている。消えうせてしまったアイデンティティーから離れたところで、1918年までに新しくアメリカ人としてのアイデンティティーをしっかりと確立したことを、彼は『灯台まで』などに示している。作家としての経歴の中で初期20年間の作品に見られるような、喪失や消失というあいまいな日本人の神秘的概念に、彼はもはや慰めを求めようとしなかった。サダキチは『私のルバイヤート』などに作家としてさらに頂点に達することになった。彼は数多く人生の宴会の席につき、次なるステップは1920年代にハリウッドに行くことだった。ペテン師(トリクスター)が再び出現しようとしていた。
参考文献
・サダキチ・ハルトマン『さびれたコテージ』(1905年?)。 『セントルイス・ミラー』新聞p7より。
・同『小さな道端の駅で』(1906年9月)。『マザー・アース』Vol.1no.7p56-60より。
・同『灯台で過ごすクリスマスイブ』(1895年)。 『空中のショーペンハウァー』(1908年)p15-18より。スタイラス出版社(ニューヨーク州ロチェスター市)。
・同『私のルバイヤート』(1916年)。 ブルーノ・チャップ・ブックス社(ニューヨーク)。
・同『美的真実』。作者の手書き原稿のコピーによる。未出版。カリフォルニア大学リヴァーサイド校特殊文献図書館蔵。
・ジョージ・ノックス編『ホイットマンとハルトマンの論争』(『ウォルト・ホイットマンとの対話』及び他の評論を含む)(1976年)。ピーター・ラング社(ベルン)。
・ケネス・L・リチャード『出島―長崎―日本―世界 憧憬の旅 サダキチ・ハルトマンと倉場富三郎』(英語)(2000年)。 県立長崎シーボルト大学国際情報学部国際交流学科紀要Vol.1no.1 p221-38
・同 第130回日文研フォーラム報告書(日本語)(2000年)。国際日本文化研究センター(京都)。
・太田三郎『叛逆の芸術家―世界のボヘミアン=サダキチの生涯』(1972年)東京美術社。
・越智道雄『サダキチ・ハートマン伝』(1998年〜2002年)。 『三省堂ぶっくれっと』に連載。
注記
1. カリフォルニア大学リヴァーサイド校特殊文献図書館に所蔵されているサダキチ・ハルトマン関連資料の中で、タイプライターで打ったオリジナル原稿からこの原文をタイプし直した。そのサブタイトルは『異国の祖先が専門的な識別を要求するケースについて』で、サダキチのバックグラウンドについてFBIや他の権力機関より彼に提出されていた質問に反論するために、あるいは少なくとも質問に答えるために、1930年代にこの作品を書いたのだと私には思える。公の目には、大部分は家族の目に(Is there a problem here with wa de aru ga?)はであるが、サダキチのアイデンティティーは、実際の環境から遠く取り除かれてしまっていた日本人、ヨーロッパ人、アメリカ人の特質で構成されており、そして彼はその事情をありのまま伝えなければならないと感じたので、何年間も伏せていたある事情を明らかにする意味があったのだと思われる。厳しい質疑を受けていた時代に、サダキチのアメリカ人としての強烈な愛国心を明らかにすることがその資料の残りの主な趣旨であると考える。(日付、ページ数ともないタイプ原稿より。第1、2節)
2. サダキチはこの作品を最もすぐれた大切な作品とみなしていたに違いない。1927年から1932-33年の間に書かれた未出版の手書き原稿である『美的真実』の中で、「私が書いた『さびれたコテージ』の純真な経験は私に、芸術作品は霊感を与えられなければならない(すなわちプラトン)。そのねらいは功利性より明確な直接の歓びである(アリストテレス)。同じことは主として知的完成である(バウムガルテン)。真価の認識は完全に個々の判断による(カント)。芸術は本質の最も高等な表現である(ヘーゲル、シェリング)。それは人間という生物体の余分な力の結果である(シラー、スペンサー)。ある程度はすべてのものは美しい(ショーペンハウアー)。」と述べている。
3.
すべての出版物と原稿はカリフォルニア大学リヴァーサイド校特殊文献図書館のサダキチ・ハルトマン・コレクションの中に保管されている。これらの物語のいくつかは再印刷されていたが、今はすべて絶版である。
4. 『万葉集』巻第3歌番号318。 『日本古典文学全集・萬葉集(1)』(小学館)より。 歌の意味については私自身の解釈による。英訳が原文(英語)に参考。
5. 『美的真実』p16。 カリフォルニア大学リヴァーサイド校特殊文献図書館蔵のタイプ原稿による。未出版。
6. 『認識との戦い』(1910年4月)。 雑誌『カメラ・ワーク』no.30 p22より。サダキチは数年間美術や写真の評論家として働いていた。『カメラ・ワーク』の発行人はアルフレッド・スティーグリッツで、芸術としての写真を早くから提唱していた。彼は後にジョージア・オキーフと結婚した。
7. 『カメラ・ワーク』(1903年4月)p29より。カリフォルニア大学リヴァーサイド校特殊文献図書館蔵。
8.
1895年から1911年にかけてサダキチがニューヨークにいた初期の数年間と、さらに1930年代に行なっていた有料の講演に添付されたチラシ広告の中でも見られるように、彼は主に美術、音楽、文学を演題にし、ウォルト・ホイットマンやポーの詩歌もよく引用した。カリフォルニア大学リヴァーサイド校特殊文献図書館のハートマン資料より。
9. オスカー・ワイルドの作品は、1906年に発行された初期の号の中で掲載された。エマ・ゴールドマンや『マザー・アース』に関する情報は下記のウェブ・サイトを参考にした。
バークレー電子図書館サンサイト編集 カンダス・フォークなどからの資料は、
http://sunsite.berkeley.edu/Goldman/Guide/bibliography.html
レオパ・ベルリンによる短い記事は、
http://www.geocities.com/CapitolHill/Lobby/8522/emma_eng.html
『マザー・アース』からのアナキスト・アーカイブ・コレクションは、
http://ispp.org/anarchist_archives/goldman/ME
10.『古今和歌集』巻第3歌番号139。 『日本古典文学全集』(小学館)より。歌の意味については、私自身の解釈による。英訳は原文(英語)に参考。
11.『日本人の詩観』。 『リーダー・マガジン』(1904年1月)Vol.3 no.2 p187より。
12. 同。
13.『私のルバイヤート』(1916年)。 ブルーノ・チャップ・ブックス社。カリフォルニア大学リヴァーサイド校特殊文献図書館蔵。
14.『美的真実』p3。
15.レオン・ダドの絵画展覧会のメモより。日付、ページ数なし。カリフォルニア大学リヴァーサイド校特殊文献図書館蔵。