『源氏物語』総論

―“男装の母”としての光源氏―テロリストとしての紫式部―

 

          ケネス・リチャード  Kenneth L. RICHARD

 

 

『源氏物語』は周知のとおり、女流作家紫式部によって11世紀初めに書かれた作品で、世界中にその名を知られている。平安時代(794-1192)中期にこの作品が登場して以来、時代を超えて日本の読者に読み継がれてきた。20世紀になると、与謝野晶子(18781942)、谷崎潤一郎(18861965)、円地文子(19051986)、田辺聖子(1928− )、橋本治(1948-    )瀬戸内寂聴 (1922-    )など、著名な作家たちにより現代語訳が出版された。

物語の一部は脚本化されたり、ラジオやテレビでも作品が取り上げられている。最近では歌舞伎や映画でも話題を読んでいる。数年前には、テレビ東京で、少年隊の東山則之が光源氏を演じた。ポプ・カルチャーにでも「源氏物語」を題材にした「浅き夢見じ」というマンガ作品もヒットした。様々な源氏も芽生えてきた。

日本語の現代語訳に加えて、1920年代にイギリス人のアーサー・ウェーリー氏(Arthur Waley 1889-1966)により、1960年代にはアメリカ人のエドワード・サイデンステッカー氏(Edward Seidensticker 1921-    )により翻訳され、英語の完訳版が出版された。また3冊目となる英訳版が、現在オーストラリアで準備されている。すでにフランス語、ロシア語、中国語訳も出版されている。

しかし『源氏物語』がどこで、誰に、何語で読まれようとも、普遍的に人の胸に訴えるよう作られているある手法に気づくことができる。例えば、生まれながらに持っている権利を取り戻し、成功者となるというテーマは、世界中の誰もが理解できることである。古代ギリシアでは、‘アゴン’に関する多くの物語がある。アゴンとは、ギリシア語で‘旅’を表わす言葉で、その物語の中では、生まれた地を離れ旅に出ることで、英雄となる。その旅には、たくさんの知識を身につけることや、ロマンチックな冒険や結婚もしばしば含まれていた。主人公は、例えば王となるために生まれた地に戻ってきたときに成功者となる。『源氏物語』にも、そのアゴンのようなテーマがある。幼い男の子は成功者となるために、多くの経験を積まなければならない。つまり彼は生まれた地を去り(光源氏は父のいる宮中を離れる)、多くの女性とのロマンチックな経験を通して前進していかなければならない(光源氏は、藤壺、空蝉、夕顔、朧月夜、六条御息所、紫の上、末摘花、女三の宮たちと関係を持つ)。さらに彼は追放され旅に出なければならない(光源氏は瀬戸内海沿岸の須磨と明石で2年余りを過ごす)。そして彼は生まれながらに目的を達成するよう予定されていた社会での地位をしっかりとつかみ取るために、生まれた地に戻らなければならない(光源氏は京都にもどり、自らが住むための六条院という邸を建て、天皇のような生活を送る)。

 

『源氏物語』は54帖から成り、一般に1帖から33帖が第1部とされる。第1部は生得権を取り戻すのに成功することが大きなテーマとなる。光源氏は源氏の君、光の君などいくつかの呼称で語られるが、それらで第1部の主な特徴を知ることができる。光源氏が成功するだけでなく、彼の努力で周りにいる人たちもまたほとんどが成功を手に入れる。光源氏は天皇であった父の跡は継がないけれども、六条院という大きくて豪華な邸を建て、そこで天皇のようにふるまう。六条院に住む誰もが成功し、それぞれが自分たちの独立した邸を持つ。六条院での人生模様と同じように、季節が自然に移り変わる。光源氏は秋好中宮という女性の世話をし、のちに彼女を帝后にする。彼女は六条院の秋の園で暮らしている。光源氏の実の娘である明石の姫君は、光源氏とその最愛のパートナー紫の上とともに、春が最も美しい園に住む。明石の姫君の母親は、六条院の北西に位置し、冬に素晴らしく見えるようデザインされた冬の園に住む。光源氏の養女玉鬘と実の息子夕霧は、光源氏の愛人の一人と北東にある夏の美しさを利用した夏の園に住む。

 

光源氏の40歳の誕生日以後が34帖から41帖の第2部とされ、光源氏の次の世代がこの物語の主な登場人物となる。玉鬘、夕霧、雲居雁、柏木たちが、物語の主な内容を引き継いでいく。第2部でも、成功が大きなテーマであることにかわりはないが、光源氏の結婚生活、子供たちやその母親、また他の女性や男性との関係に起こってくるひび割れを取り上げている。若かりし日の光源氏が経験したような成功を、誰もがつかみ取れるとは限らないのである。例えば柏木は、源氏の新しい妻女三の宮に不義の関係を強要し、その後精神的に追い詰められ死んでしまう。はっきりと自殺とは書かれていないが現代の言い方はアル中と自殺です。女三の宮に薫という男の子が生まれるが、光源氏の実の子ではなく、柏木との不倫の結果である。今述べた登場人物たちは皆若く、不運である。第2部では、どのように人生があるべきかではなく、実際の人生について「源氏物語」が正直に語っている。

 

42帖から54帖の第3部は、光源氏亡き後、彼に関わりのある若い人たちに起こることに関する物語が始まるが、すぐに舞台は京都から寂しい山里の宇治に移り、源氏の息子とされている薫と実の孫である匂宮が、大君、中の君という姉妹目当てに馬で京都と宇治を行き来する。3世代目の登場人物たちが宇治で織りなす関係は、その始まりの時がもっとも成功している状態である。言いかえれば、彼らの人生最良の時は、物語が始まる前にすでに起こってしまっている。私たち読者が読み取らなければならない構造は失望の物語であり、人と付き合っていく能力の欠加である物語、生きようとする意思の喪失である物語です。サクセス・ストーリーの第1部、出世物語とそこに起こってくるひび割れを取り上げた第2部、そして第3部は、精神の盛衰談と言えるにちがいない。いわゆる宇治十帖とも言われる第3部が、物語全体の中でもっとも素晴らしいと私は考える。日本人読者の多くは賛成していただけると思う。

 

『源氏物語』の中で、サクセス・ストーリーからその成功に変化がおき、失敗の人生へと続く物語がどのように語られていくかは、とても魅力的であるのと同様に、非常に複雑でもある。どうして紫式部がこういう風に立派な作品を書けたのかというと著者が利用した‘物語文体’の3点を考察すると明らかになると思う。

 

まず第1に、紫式部は実際の人々の話を書くつもりであったのでもなければ、自叙伝を書こうとしたものでもない、と私は考える。『源氏物語』の登場人物は、現実のモデルがいるわけではなく、少しは作者が知っている人たちで、ほとんどが彼女の空想である。なぜ紫式部はこのように書いたのだろうか? それは、真実を書くということ、観察による現実的な事実には限界がある。真実や事実の向こうにあるものを想像すると、すべてが可能となる。私は、紫式部がこの衝動にかられ、書く気になったのだと思う。裏の世界をあからさまにすると決心した紫式部だから、世界に最も早く活躍した小説家と呼ばれているのが過言ではないと思う。

 

私はまた『源氏物語』が、真実に近いが人生よりも大きく、現実の経験によって制限されない虚構であることに加え、破壊的でもあると考える。紫式部はテロリストであったとも言えると思う。破壊することにより、その物語は社会秩序の裏面を映し出し、くつがえすことになるということだ。光源氏が実際に成功をつかみ取る、つまり彼が生得権を取り戻す方法は、一般に認められている習慣に違反することが含まれている。彼は亡き母とそっくりの継母と関係を持つことによって、生涯を通して守り続けなければならない秘密を持ち始める。天皇に仕えることになっていた女性とも関係をもつ。このようなことは平安時代に許されていなかった。またある幼い女の子を引きとって娘のように世話をしながら、後に彼女を自分の妻にしている。これも社会的な慣習として受け入れられるものではない。『源氏物語』には、このような例が他にも多くある。この作品が最初に読まれた平安時代でさえ、当時の人々にとってセンセーショナルな内容で、写本を手に入れるためにはどんなことでもしたという。普通に起こり得ることを越えた世界を知ることが、虚構の大いなる楽しみであり、それこそが小説といえる。

 

紫式部が読者の興味をそらさないために使った第2の手法は、‘アイロニー’の使用である。簡単に言えば‘アイロニー’は、事実または真実として描写されていることの背後に別の意味が隠れているというのが読んでわかることで、文学の修辞技巧の一つである。言葉を替えれば、‘アイロニー’が作品に使われているとき、私たち読者は登場人物たちが知っていることの向こうにある真実に気づく。例えば藤壺が光源氏との子供(後の冷泉帝)を産むことを私たちは知っているが、物語の中では冷泉帝本人も含め誰も知らない。秘密、そして作品の手法として‘アイロニー’を使うことで、この物語を成功する結末へと後押ししている。書き手としての紫式部は、秘密や‘アイロニー’を守り続けることはしないで、遅かれ早かれ適所で真実を暴露する。秘密は明らかになるのだが、それは常に私たち読者が知ってからずっと後である。

 

現実を越えた作り事の世界の概念と‘アイロニー’の概念が結びついて、『源氏物語』をすばらしく成功した虚構の作品にしているのは、3番目の手法による。それは生得権を確実に取り戻すための主たる手段として、光源氏が母親役を引き受けるという‘ジェンダー’としての役割による逆転の現象である。つまりこの物語の虚構の世界では、先天的な性別としての女性より、後天的に男性が育ての母となる方が成功するのである。光源氏の父桐壺帝の死後、その妻であり冷泉帝の母である藤壺は出家し、光源氏は冷泉帝の‘母親’となる。まだ幼かった冷泉帝が天皇になるよう助け、自分の地位も確立する。そうすることで、光源氏は自分の成功を確実なものにするのである。<私の講義では、いくつかの実例を挙げ、どのように光源氏が冷泉帝の‘母親’となるかを説明する>。 ‘アイロニー’と虚構性が互いに光源氏の母親役に作用して、この物語を魅力的なものにしている。

 

光源氏の腕の中で若い恋人が死んでから数年後、その恋人と他の男性との間にできた娘が六条院で光源氏とともに暮らすことになる。光源氏はこの娘の‘母親’役を引き受け、彼女は生得権を見つけるために‘自分捜し’をし、成功を手に入れる。彼女の名前は玉鬘である。<後の講義で光源氏が玉鬘の‘母親’となっていく過程の例を挙げる>。

 

上記のような玉鬘に関する場面が六条院で繰り広げられた数年後、光源氏が今度は薫の‘母親’役を引き受ける。薫の実の母は女三の宮であるが、子供の出生を取り巻く厄介な事情のために、彼女は光源氏に子供を託してすぐ出家してしまう。<後の講義で光源氏が薫の‘母親’となるいくつかの例を挙げる>。ここでも真実より膨らんだ世界が薫の誕生の背後にある。実の父が誰であるかを薫が知ることから守るために、‘アイロニー’が用いられ、ついには光源氏が‘母親’として行動し、薫に成功した人生が送れるチャンスを与える。ところが、その過程は光源氏の死によってもろくも途切れる。成功できない運命の薫の物語が、最後の10帖で語られる。

 

最後に、光源氏の‘男装の母’(男の服装をした男性が女性の役割を演じるtransvestite mother)としての概念は、『源氏物語』における’irony’ という物語文体の範囲内でフェミニストの立場である。紫式部は女性に強くアピールする物語を作ろうと考えた。なぜならその虚構の世界では、男性の主人公が女性であるかのように行動する。初期の宮廷社会では、子供たちは家族の中で完全に母親側に属し、母系社会の持ち物と考えられていた。紫式部が生きていた現実の世界では、父権社会がすでにその宮廷社会のなごりをひっくり返していた。光源氏は、紫式部が現実の世界で知っていた藤原道長のように粗暴な男ではなく、中間的な性格である。若い女性の読者たちは、光源氏のように知り合った女性を決して忘れない優しい男性に興奮していたに違いないし、男性の読者たちは、女性に非常に人気のある光源氏のような完全に脚色された男性を作ったことをくやしがり、また興味をそそられたに違いない。一方では光源氏の男らしさは、母親としての役割で表現されているし、彼の女性らしい面を大きく描くには、事実の男性よりうんと優しく作られている。他方では玉鬘のような女性の登場人物がちょっとした男性らしい苦い味を加えることにより、彼女の魅力が増すことを維持するし、事実の女性より男らしさの要素を示していると言えるでしょう。新しき中等性をヒントするとまで文体に含まれていると思う。紫式部はテロリストであったかもしれないが、まったく破壊的ばかりではなく、ニュウ・ハーフと言えるくらいの新しい社会秩序の方策を立てようとしていたかもしれない。面白いことはもう時代的に遅すぎた。もう男が支配する中世の幕開きであった。