出島―長崎―日本―世界―憧憬の旅
ケネス・リチャード
(小原ちさと・訳)
第1章:サダキチ・ハルトマン(1867-1944)と倉場富三郎(英名トーマス・アルバート・グラバー 1871-1945)の背景
憧憬とは、少し距離をおいてみると気づく記憶から造られる、組み立てられた真実の状態である。つまり遠く離れた生まれ故郷や過ぎ去った時代の記憶の破片を今の暮しの中に取り入れて、それらを重ねあわせてアイデンティティーを作り上げるときに、基となるものである。少なくとも私はそのように考えている。もっと簡単に言うと、「憧憬の旅」は精神に戻る旅である。ここでは、サダキチと富三郎という二人の人物がたどった生まれ故郷への憧憬の旅について述べたい。私の場合は留学生となったので、日本でその思い出を作ることにより生まれ故郷や記憶の組み立てを行なった。
したがって憧憬という概念は遺伝や血のつながりといった事実からではなく、我々それぞれが人生の中で得た真実から作り上げるものである。私もここで魅惑的なセイレンの歌のように自分自身のことにも少し触れながら、長崎で生を受けた二人の男性について述べたいと思う。彼らが作り上げたものや、どのように人生を生きたかは、彼らが誰であるかという核心にふれるものである。二人が後世に残した作品や功績は、その中に埋め込まれたアイデンティティーの遺伝的記号を切り離して語るには無理なほど、それぞれのアイデンティティーが関わりあっている。彼らは二人とも、日本人とヨーロッパ人との混血である。それぞれの親たちにとっては憧憬の旅の終着点で、二人は混血として生まれたのだ。そこに彼らと私との違いがある。二人は身近なところに外国というものを含んでいた。
二人とも長崎の外国人居留地で、数年違いで生まれている。どちらもヨーロッパ人の商人と日本女性の愛人との間に生まれたが、父親同士は知り合いではなかったようだ。サダキチの父カール・ヘルマン・オスカー・ハルトマン(1840-1929)はプロイセン人で、富三郎の父トーマス・ブレーク・グラバー(1838-1911)はスコットランドのアバディーン出身であった。明治時代になる前の1855年から1865年は徳川幕府が調印した通商条約後で、自由貿易が許された時代であり、彼らは長崎で事業の道を切り開いた。景気が上向いていた上海で、長崎に活躍の場があるという情報を得たのであった。
それぞれの息子サダキチと富三郎は二人とも、実際には二つのアイデンティティーを持っているけれども、主として日本人の方を受け継いでいることを明らかにするように、生まれたときからルックスの良さが備わっていた。
ここでは混血である二人の男性が、どのように日本人のアイデンティティーの方を選ぶことになったかをたどっていきたいと思う。サダキチは幼い頃に日本を離れ二度と戻らなかったが、富三郎は長崎で活発に活動していた外国人社会の中で人生を過ごし、短い期間アメリカに留学した以外は海外へは行かなかった。
サダキチ・ハルトマン(1867-1944)は、カール・オスカー・ハルトマンと日本人の母おサダとの間に長崎で生まれ、ドイツからアメリカに渡り、第二次世界大戦終戦の直前に、フロリダに住む娘の一人を訪れているときに亡くなった。サダキチは晩年カリフォルニア州バニングで、自分で建てた小屋に住んでいたようだ。そこは、また別の娘ウィステリア・リントンが住むモロンゴ・インディアン族の居留地の一角であった。(注@)
(図1,2)
晩年のサダキチは、アメリカにとって敵国であるドイツと日本両国の血を引いていたために、FBIの諜報部員から監視されていた。しかしながら二つの世界大戦の合間は幸せな日々を送り、偉大でロマンチックでエキゾティックな東洋人としてもてはやされていた。(注A)
(図3, 4)
サダキチは10歳(1877)の頃までには父の国ドイツのハンブルグに戻り、少年たちの兵学校にいたことが記録されている。同じ頃、富三郎も日本で撮った制服姿の写真があるが、どちらも典型的な両国の少年である。(注B)
(図5, 6)新興勢力のドイツと現代化が進む日本は、軍や学校の「制服」を大切にすることが「母国愛」と同じ意味を持つと表現した。母国に対する憧れも憧憬の一つではあるが、サダキチの場合はそんな愛国主義的なものではなかった。
サダキチはまもなくドイツを離れたので、これらの思想からも遠のいた。父から勘当された彼はアメリカのフィラデルフィアに移住し、英語を身につける。作家、評論家、俳優としてのキャリアはここが大きな分岐点となった。
1884年から約10年の間、サダキチは、フィラデルフィアの対岸ニュージャージー州キャムデンに住む詩人ウォルト・ホイットマンを訪れている。1887年から1889年にかけてはボストンに住んで戯曲を書き、以後、家庭を持ち5人の子供に恵まれた。1896年から1916年はニューヨークに腰を落ち着け、アメリカにおける初期の偉大な写真家アルフレッド・スティーグリッツ(1864-1946)の写真に関する批評を執筆している。それから1920年代から1930年代はハリウッドやカリフォルニアの他の町に暮らし、ヴァンプのような生活を送った。同棲していたウィステリアの母親とも1922年頃にはすでに破局を迎えている。ハリウッドではサイレント映画の名作『バグダードの盗賊』(1924)に出演し、ダグラス・フェアバンクスと共演した。そしてジョン・バリモアをはじめハリウッドのバンディ通りに住む俳優たちと飲み仲間になった。サダキチはいつも会話の中心であり、必要とされている仲間であり、日独の混血だからといって仲間はずれにされることもなかった。
サダキチは日本の知識階級としての自分の虚構を楽しんだ。一生の間で、生まれてから数年しか日本で実際暮らした経験はないのだが、全部ではなくても日本人の特徴がよく出た顔かたちに誇りを持っていた。日本人の血を引いていることは、モダニズムに対する芸術的な意見や論評の手助けとなったし、外見からただようエキゾティシズムは、アメリカの読者の興味を引き注目を集めた。サダキチは非常にハンサムな男性であった。
(図 7, 8)
倉場富三郎(1871-1945)は英名をトーマス・アルバート・グラバーと言い、サダキチより数年後に同じ長崎で生まれたが、富三郎は特権的な家柄であり将来有望な道が引かれていて、サダキチとは正反対であった。富三郎の父トーマス・ブレーク・グラバーは、長崎に住む外国人の中では最も裕福な暮らしを送っていた。父グラバーは交換比率の違いを利用して、日本の金貨(小判)を上海に船で持ちこんで洋銀(ドル)に替え、それをまた日本でお金に替えることで三倍に増やし財をなしていた。
父グラバーは1859年、21歳のとき上海を経由して長崎にやって来た。1864年には長崎で最もりっぱで個性あふれる家を、湾が見渡せる岬の上に建てている。現存するその家は、長崎市指定の公園グラバー園の中に建つ。プッチーニの代表的なオペラ『蝶々夫人』の家として広く世界に知られているが、蝶々夫人は架空のヒロインで、モデルとなる女性がその家に住んでいたわけではなく、ましてやプッチーニがそこを訪れたこともなかった。父グラバーはそのオペラが有名になる前に東京で亡くなっている。長崎の観光コースになっているその家に、毎年多くの日本人観光客が押し寄せるのは、『蝶々夫人』への憧憬であろう。
富三郎は海外へ留学していた短い期間を除いて、父が東京の芝公園近くの別宅に移ったときも、父が建てた岬の上の邸宅を離れることはなかった。
(図 9,10)
富三郎は長崎の商業社会の中心人物として穏やかに仕事をこなし、礼儀正しい人物として通っていた。父トーマスの妻で、富三郎にとっては継母であるおツルが亡くなったときに、富三郎はワカという娘と結婚した。ワカは英国商人と日本女性の間にできた娘で、以前より二人は父から婚約を勧められていた。
(図 11)二人には子供がなく、1930年代の陰うつな時代の最後の日までグラバー邸で平和な日々を送った。
富三郎の世界文化への重要な貢献はいずれ認められなければならない。彼は、手書きのイラストが入った日本最大の魚類事典の編集に力を注いだ。1912年から1936年の間に長崎在住の画家たちに描かせたもので、長崎付近の海に住む魚や海洋生物のみごとなスケッチは800を越える。
富三郎が長崎の文化的生活に大きく貢献したものに、長崎に住む外国人と地元の人々が親睦を図る社交クラブ「内外倶楽部」の設立とその建物がある。建物は今も出島に残されている。出島は外国人居留地として1636年に長崎港内に作られた島で、約200年もの間オランダ商人との交易が許されていた。富三郎は、長崎の町の歴史保存や保護に取りかかっていた。2000年の今年、日蘭交流四百年という機を得て出島は部分的に再興されている。
サダキチと富三郎の成長した頃の写真がある。
(図 12,13)私がこの二人を素晴らしいと思うのは、二人が異文化の中でアイデンティティーを築くことができたからであり、意識的な構図の上で、それぞれに日本生まれでありながら日本を憧憬することを基にして、日本とアメリカに意味のある文化的貢献をしたからである。政治も経済も、西洋の血が半分流れる二人の人生を崩壊させるのに協力した。二人の父は軍艦の建造や武器弾薬の供給に関係し、息子たちはどちらも日本での西洋的な商売を拒絶した。
私もまた実は軍と関係がある。それについて少し触れておきたい。私の父はボーイング社に勤めていて、日本に大打撃を与えたB-29爆撃機の翼の組立て作業をしていた。長崎に原爆を投下した爆撃機も含まれているだろう。私はその仕事を拒絶したが、父を拒んだわけではない。同じようにサダキチは長崎から連れ出されたが、長崎は決して彼から離れなかった。また富三郎は父の事業を拒絶したが、父を拒んだわけではなかった。サダキチと富三郎の組み立てられたアイデンティティーは、出生に基づいた憧憬である。二人とも遺伝的な二重性を放棄する決心をした。つまりサダキチの場合は、エキゾティシズムの輝かしい存在として生きるためであり、富三郎の場合は長崎市民と共に生きていくためであった。二人が文化的に成し遂げたことを私は評価したい。20世紀を生きた彼らに降りかかった不当な差別を思うと、心が痛む。彼らの憧憬が続くことは許されなかった。それは今の時代でも起こりうることである。
第2章:サダキチ・ハルトマン(1867-1944)の文化的貢献
サダキチの父カール・オスカー・ハルトマンは、レーマン&ハルトマン商会の経営者の一人で、上海にあるマセソン&ジャーディン商会の事務所を経由して来日し、その英国系貿易会社の代理人として、自由貿易港である長崎で新しい取引の機会を調査するのが仕事であった。1855年から1867年は長崎が急激な発展を遂げていた頃で、カール・オスカー・ハルトマンにとっても同じであった。
しかしサダキチには長崎についての記憶はほとんどなく、母おサダの思い出も、生涯持ち続けたたった一枚の写真以外にはなかっただろうと言われている。
(図 14)おサダは目鼻だちが整った美しい女性であったらしく、角ばったあごと細おもての顔だちは、長崎の友人によると、うりざね顔といって長崎の典型的な顔だそうだ。年を取ってからのサダキチは特に母親に似てきたようで、1920年頃以降の写真にはほとんど、母のしっかりした顔だちとあごの特徴が出ている。子供の頃の写真にドイツ兵学校の制服姿があるが、柔和な丸顔で、よりドイツ人の輪郭に近い。若い頃はドイツ系統の顔かたちが目立っていたのに、本質を表す顔は人生の後半に現れるようだ。今日の長崎でも見られるように、目鼻立ちが整っていて細おもてで角ばったあごの特徴がだんだん現れてきている。ここで注目したいのは、サダキチが自分の経歴や性格の中で最も誇りとしたことは、遺伝や顔かたち、様々なしぐさやふるまいに出る日本人らしさであったということだ。人々はそれをサダキチの中に見いだし、またサダキチもそれを伝えようとした。
私は、父オスカー・ハルトマンとサダキチとの関係に興味をそそられる。というのは、サダキチが父の経歴や事業を拒否したからである。サダキチが日本から最初に移り住んだ地ドイツのハンブルグでは、祖母を除いて親戚はみな彼に軽蔑した態度を取った。一方その頃、父オスカーは日本で武器弾薬を売買していたが、結局のところそれもうまくいかず、さまざまな方法やいろんな場所に成功の道を求めていた。それらは、サダキチのように文学が好きで詩人肌の少年には、しっかりとした教育にはならなかっただろう。サダキチは、父オスカーが軍と密接な関係にあるとみなしていた。サダキチはハンブルグを出て兵学校に送られ、後に放校処分を受けたらしい。その理由は十分想像できる。兵学校時代の写真は制服を着た悲しげなドイツの少年で、数十年後「グレニッチ・ヴィレッジのボヘミアンの王者」とアメリカ大陸中の噂になったサダキチとは似ても似つかない。人生は決まっているかのように、サダキチが日本に戻ることは二度となかったのだが、日本を離れる前から父がほとんど家にいず、日本人に銃を売っていたことをサダキチは知っていたにちがいない。
そうしてサダキチと兄タルーはドイツに送り返された。父は大阪で、徳川幕府に抵抗している和歌山藩とともに騒動に巻き込まれていた。明治時代となり徳川幕府の権力は失墜し、明治政府は富国強兵や徴兵制度など新しい中央集権体制を敷くつもりであることも明らかになった。父オスカーが正しいことを間違った人々のためにしていたのは皮肉である。悪いことに、彼は明治政府の首脳部の中で新しく力を持ち始めた商人たちの間では適職を見つけることができなかった。しかし真相はちがうのだが…。父オスカーは日本を去ることになった。サダキチと兄はすでにドイツにいたし、父も二度と日本に戻ることはなかったようだ。(注C)
サダキチは兵学校からパリへと脱走する。父はサダキチを勘当し、フィラデルフィアに彼を追い払い、そこに住む親戚の世話に託すことにした。サダキチはその親戚をたより、無一文で1882年6月アメリカに到着している。そこで町の図書館や古本屋に通い、独学で読書を始める。
サダキチはすぐにアメリカに溶け込んだ。たとえ歴史が浅くても、少なくともアメリカは彼にとっては一つの統一された国であった。生まれた国日本とも父の国ドイツとも異なっていた。そこには精神力があり、労働観が存在していた。人が望めば何でも実現するような自由な感情があった。
サダキチの経歴に大きく影響を及ぼした出来事に、ウォルト・ホイットマンとの対話がある。その白髪の老人は、『草の葉』で知られる卓越した詩人であった。1884年、サダキチはフィラデルフィアの対岸ニュージャージー州キャムデンに住むホイットマンを初めて訪れている。サダキチは17、18歳であっただろう。以後彼を何度も訪れることになる。サダキチによる『ウォルト・ホイットマンとの対話』は、ホイットマンの死後1895年に出版された。当時も大きな噂になったが、ホイットマンの遺言執行人は偉大な詩人に対するサダキチの辛らつな表現を快く思わず、出版を差し止めようとした。それにその内容は諷刺に満ち、当時活躍していた芸術界の著名な作家たちの欠点を容赦なく指摘していた。おそらくその中傷的な内容ゆえか、批評家たちは誰もが、サダキチが記録に残した会話は実際にはありえないとか、全部インチキだと言ってよい程誤りもはなはだしいと嘆いた。私はその短い作品を読んでみたのだが、当時の評価は悪かったにせよ、実際はその時代の事実を正確に伝えようとしていたのではないかと思う。ホイットマンは無愛想な人物で、自分よりも劣っていると思う芸術界の作家たち、特に資本家階級の人々を激しく非難したことで知られている。サダキチの記述には真実がこもっているのだ。
ホイットマンの顔を見ても圧倒されるようなことはなかった。しかしその健康的な男らしさはすぐに好きになった。私には、精神的に深められた現代アメリカ人のイメージのように見えた。つまりアメリカ人は真に労働者の民族であるから、理想の労働者の姿だ。とりわけ、自由に流れているような白髪やあごひげ、ブーシェのような、健康的でしっかりとした血色のよい顔に関心を持った。彼の顔立ちは、濃い眉毛と青みを帯びた灰色の目の間が広く離れている。(冷静沈着な感じを与えている)。私の人相学的な観察によると、率直、大胆、傲慢な性格を表していて、とりわけ私の興味を引いた。(注D)
サダキチがホイットマンに持った初めの頃の印象では、彼は素晴らしい人物で、見習うべきところがたくさんあると言っている。ホイットマンの遺伝子がサダキチの顔に移ったようだ。自分がこうありたいと願うことで、一体化を招いたのである。同じ評論の中で、後にサダキチは長崎の美しさについて述べている。長崎で生まれたことが自分の世界観にいかに深く影響しているかをホイットマンに印象づけるかのようである。ホイットマンがサダキチに人生で何をしたいのかを尋ねる場面では、次のような会話が交わされている。
その頃の私は演劇に熱中していた。それで演劇に専念したいのだと自分の気持ちを話した。シェイクスピア劇に出てくる道化について特に研究しようと考えていた。(道化の役を演じるには背が少し高すぎるけれども…)。
ホイットマン(首を振りながら)「それはどうかな。我々には生まれ持った特徴や性格、つまりアメリカ人気質というものがたくさんある。君にはそれが身につかないだろう。支柱で支えることはできても、結局のところ、桃の木にバラを咲かせることはできないのだ」
私はほとんど記憶にはないけれども、日本のこと、それも長崎の美しい湾のことを話した。
ホイットマン「あー、美しいところなのだろうね」
帰るとき、彼は私に『つまるところ、ただ創造するだけではいけない』という詩のゲラ刷りを一部くれ、父親のようにこう言った。「これを6回でも8回でも読みなさい。そうすればわかるだろうからな」(注E)
この短いやりとりを通してサダキチが私たちに言いたかったのは、ホイットマンのような偉大な詩人の忠告に、うわべではなくアメリカの真髄をくみ取り、その真髄を自由にイメージして、自分の個性を完成すべきだ、ということである。結局、ホイットマンは自分が最適な広告代理人であったようで、出版社を通すというよりは、自宅から直接自分の出版物を販売していた。『つまるところ、ただ創造するだけではいけない』という詩のコピーをくれたことをサダキチが記事にしているのは、まさに適切である。そこには、ホイットマンが考えるアメリカの精神の真髄が含まれているからだ。サダキチへのメッセージは最初の3行にある。
つまるところ、ただ創造するだけではいけない。ただ建設するだけでもいけない。
おそらく、すでに建設されたものを、遠くから引き戻し、
均等で、限りなく、自由な我ら自身そのものを、それに与えることだ。(注F)
演劇は控えるようにというホイットマンの忠告を無視して、サダキチは俳優になること、少なくとも演劇の世界に少しでも足を踏み入れることを決心した。それは、どうしても彼から離れない魅力であった。アメリカで初めて書いた戯曲『キリスト』(1893)は、劇中に前向きの全裸の場面があり、他にも多くの点で現代性の先がけとなる劇であった。(注G)
3幕からなる劇詩であるとサダキチが言う『キリスト』の中で、ジェシュア(キリストのこと)は、妹のマグダレンが住む小屋にいる。その時巡礼者ハンナが現れる。ハンナは幻想の中に送り込まれたような奇妙な感情を持ち始める。次に挙げるのが、特に論評で物議をかもした部分である。
(ハンナが入ってくる) 変な気持ちだわ。自分のことがわからない。
(一本のユリを折ってそのオシベを摘む)(中断)
二人(前のまま) 私たちの無邪気な夢は混乱して、満たされない欲望に染まっていった。私たちの愛は、心を蝕む想いに毒されている。創造の神秘は、私たちのエデンの園のような夢の中で誘惑となっている。(彼らの声は小さくなり、涙が彼らの目から落ちる。あまりに激しくすすり泣くので、のどが震えている。ジェシュアはハンナの足元にひざまずき、悲痛な想いで頭を落とし、嘆く。ハンナは言いようのないほどの悲しみの表情でジェシュアを見つめる。彼女の全身が震え、太陽が雲の間から現れる。彼女の表情は美しくあどけない笑顔に変わり、神々しい美しさのその身体から身につけていたものがすべりおちる。
音楽…ハンナは急いで自分の裸体の背景をなしていた衣を整える。
ジェシュア 貴方の裸体は祈りである。(詩人エロサールにむかって。エロサール登場)。まもなくあなたは私の声を聞くでしょう。私の人生の使命はまさにこの時を始めることです。(聖母マリアが庭に入ってきて、ハンナと言葉を交わす)
エロサール 今、人々は奇跡だけを信じています。
ジェシュア それでは私がそれを起こして見せましょう。
エロサール あー、私がいつもあなたと共にいることができるなら。
ジェシュア あなたは自分自身を忘れることができても、あなたの芸術を忘れることはできないだろうに。
エロサール あー、私の最も大切な芸術よ。
ジェシュア 一日が喜び多いものを。
エロサール 来るべき時代が喜び多いものを。芸術は美しいものはすべて永久に伝えるのです。純粋な心で組み立てられた考えはどれも、生き生きとした空気を吸う権利があるのです。色彩、音楽、あるいは思考のインスピレーションは、ピラミッドが廃墟と化し、エホバの神殿が悠久の碧空にむかって金色の丸屋根をもはや持ち上げなくなっても生き残っているでしょう。
ジェシュア おそらくそうでしょう。しかし何のために…?
エロサール 美しくするために、美しくするために!(注H)
裸体、照明と音楽、衣装は、アメリカ以外ではこれまでに使われてきた技術であり、スキャンダラスな要素は全くない。1900年パリ万博でのルイ・フューラーのダンスにも見られ、ヨーロッパの詩人や作家たちを大いに喜ばせた。五感を混合し、19世紀フランスの象徴主義と同じようなシネステイシア(共感覚)の書き方は、サダキチの戯曲の核心にあるものだ。当時のアメリカは、フランス的な概念を受け入れるには単にまだ準備ができていなかったのだ。特にキリスト教の第一のイコン(聖像)を同じ舞台にあげる大胆さに驚かされたのだ。詩人のエロサールがジェシュアに言うように、キリストの言葉自体の基本的な機能は純粋に美的だ。実用的でないことに気づかなくてはいけないとまで言っている。その点である。まだまだ根本主義的なアメリカは、キリストの言葉を象徴的表現として受け取る準備ができていなかったのだ。サダキチは、照明や裸といった現代的な技術や、文学としての宗教的なテキストといった現代的な考えをアメリカの舞台に紹介したのであった。その結末はスキャンダルであり、逮捕であり、やっかいな裁判であった。
しかしサダキチの天職というものは、ジャーナリストや評論家であり、人生を楽しみ自由奔放に生きるボヘミアンとしての人生であった。ニューヨーク的な感覚、ヨーロッパ的な嗅覚を持ち、新しく作られた東洋的な偶像として、自由恋愛や社会主義、精神的解放を熱心に唱え、文学や美術の新しい形の芸術家としての人生であった。
戯曲は失敗だったが、ニューヨークにいる間、サダキチは写真に関する多くの評論を残している。19世紀最後の10年間と20世紀最初の20年間、つまり1890年代から1910年代に書かれた写真に関する評論は、最近になってサダキチが書いたとわかったものもあり、写真評論の入門書として再刊されている。(注I)これらの記事の中でサダキチが主として伝えたかったのは、アメリカに芸術としての写真を紹介することであり、すぐれた評論家としての自分の地位を確立することであった。アメリカではサダキチがその先駆者となった。ここでは、サダキチの写真評論について詳しくは扱わないが、日本の絵画が写真の現代性を確立する手助けになったという概念を、彼は何度も評論の中で使っている。
美術評論家としては、アメリカでの日本美術に関する最初の本『日本の美術』(1904)を執筆した。日本美術の影響について述べた章では、ヨーロッパでジャポニズムが大流行している理由を一般の読者に説明しようとしている。
ヨーロッパの芸術家たちは、人物や場所の巧みな設定、生き生きとした動き、表現力、形態や色彩への情熱、陰影を用いない人物描写のスケッチなどの点においては、日本人の芸術家たちと同等である。しかし彼らは、とるに足らないような日本の絵本にすら見ることのできる制限のない暗示性にたどり着くことは決してできなかった。この暗示性が現代芸術を征服したのだ。
タイミングもちょうどよかった。ヨーロッパではあまりに哲学的に描かれすぎていた。最も平凡なものから最も荘厳なものまですべてが収集され、目録に載り、論評され、内容の乏しい知識をあちこちかき集めるためだけに集められてきた。ヨーロッパ美術界にたまっていた埃やクモの巣を取り払う必要に迫られていたのだ。その知識のかたまりを浄化し、再編し、発展させることで、新しい生命を吹き込む必要があった。それを成し遂げるには日本美術をおいて何があるだろうか? その影響は至るところに感じられる。たとえばそれは、アンデルセン、ツルゲーネフ、ヴェルガ、フランスやスカンディナヴィアの現代作家たちが得意とする短編小説を生み出した。実際に語る以上のものを暗示する簡潔な表現に向かう傾向となった。少し変化をつけながら表現を繰り返す方法は、ポーの詩やフランス象徴主義者の作品にたどることができる。特にモーリス・メーテルリンクの作品には、中世ギリシャと日本美術を連想させる一風変わった組み合わせが見られる。(注J)
サダキチはこの時代に他にもたくさんの本を書いた。それらの著書によりアメリカの絵画や彫刻に対する評価が確かなものとなった。著書には『アメリカ美術史』(1903)、『芸術にみるシェイクスピア』(1901)、『絵画における構図』(1909)、『ホイスラー研究』(1910)、『風景画及び人物画の構図』(1910)、『現代アメリカ彫刻』(1918)などがある。
サダキチはハリウッドで映画の脚本を書いたこともある。サイレント映画の名作『バグダードの盗賊』(1924)ではダグラス・フェアバンクスと共演し、サダキチは魔法使いの役を演じた。その映画には他にも二人のアジア人が出演している。一人はモンゴルの王女を演じたアンナ・メイ・ウォン(1905-1961)で、非常に美しい中国系アメリカ人であり、ハリウッドの他の映画にも多数出演している。もう一人は上山草人(かみやま・そうじん1891-1954)で、アンナ・メイ・ウォンの兄の役であるモンゴルの王子を演じた。上山は後に、黒澤明監督の『七人の侍』(1954 東宝)にも出演しており、三船敏郎と共演している。サダキチは映画に出演したアジア人の草わけ的存在の一人であった。
1930年代、サダキチは“バンディ・ドライブ・ボーイズ”として知られるハリウッドの俳優仲間たちと親交があった。その中には、ジョン・バリモア、ジーン・ファウラー、W.C.フィールド、ジョン・デッカーなどがいる。ジーン・ファウラーが書いた『最後の集いのノート』(1954)の回想によると、バンディ通りはジョン・デッカーのスタジオと自宅があったところで、今やOJシンプソンのうわさで有名となったカリフォルニア州ブレントウッドの中にある。おそらく隣人達はいつもイライラしていただろう。ジョン・デッカーはハリウッドの俳優仲間を持つ芸術家であった。“バンディ・ドライブ・ボーイズ”は、無作法だが都会風で、ウィットに富み、不道徳で、辛らつ、誠実だが大胆、ハードな生き方の(ハードな飲み方の、とも言える)グループであり、サダキチは彼らをとても楽しませていた。この頃、サダキチは『美的真実』という長編に取り組んでいたが、出版されていない。サダキチは喘息もちで大酒飲みであり、このバンディ通りのパーティーでしばしば道化を演じていた。(注K)
第二次世界大戦中、サダキチは娘の一人ウィステリア・リントンの家の近くに樫板の小屋を建て、変人のような生活を送っていた。その小屋をサダキチは「キャットクロー・サイディング」と呼んでいた。彼は1923年にカリフォルニア州バニングにあるその場所に移ってきたのだが、そこはモロンゴ・インディアン族の居留地の一角であった。彼は1944年、70歳後半で死ぬ少し前までそこで過ごしていた。彼が亡くなったのは、最初の妻との間にできた娘ドロシア・ジリランドをフロリダ州セント・ピーターズバーグに訪ねていたときであった。
サダキチについて日本語で出版された本は、『叛逆の芸術家―世界のボヘミアン=サダキチの生涯』(太田三郎著 1972)のみである。また現在、越智道雄氏(明治大学教授)が三省堂『ぶっくれっと』に「サダキチ・ハートマン伝」を連載中である。美術史や評論についてのサダキチの著書はほとんど出版されておらず、忘れられた存在であるが、アメリカ芸術や戯曲、写真、絵画、彫刻に対するアイデンティティーを創り出そうと努力した芸術家たちへの影響は今もって驚くべきものがある。カリフォルニアの田舎に追いやられてからも、1944年に死ぬまでアメリカの文化的エリートたちと交流を続けていた。彼の手紙の中には、詩や美術に関してエズラ・パウンドから来たものも8通あり、それらもカリフォルニア大学リヴァーサイド校の特殊文献図書館に保管されている。
第3章:倉場(グラバー)富三郎(1871-1945)の文化的貢献
日本人の母親と日本国民ではない父親との間にできた混血児たちが、合法的に父親の姓を名乗ったり財産を受け継いだりすることは望みの持てない時代であった。そんな中で、日本人のアイデンティティーの部分を主張することについては、倉場富三郎はサダキチよりもはるかに幸運であった。富三郎の父トーマス・グラバーは日本女性ツルが正式な妻となるよう取り計らった。ツルは晩年東京でグラバーと暮らしていたが、「グラバー」の日本語読みに近い「倉場」姓を名乗るために新しい戸籍謄本の手続きが長崎で行われた。結婚はしていてもグラバー姓の戸籍謄本がないので、ツルは富三郎がすでに入っていた倉場姓の籍に同じく入った。富三郎は23歳で、正式に倉場姓を名乗っていた。ツルは実際には継母であったが、便宜上、実母として登記された。
このようないきさつで富三郎は、少なくとも1930年代の軍国主義の陰うつな時代に自分が生まれた国と自分の血が流れるスコットランドが戦うまでは、長崎の外国人社会の中で尊敬され、多忙な日々を送り、長崎実業界の名門のままであった。
1899年、富三郎は「内外倶楽部」の設立に加わった。それは長崎の外国人社会と地元の人々が親睦を図るための初の社交クラブであった。また、外人居留地以外では日本国民でないものは土地の売買や貸借が許されていなかったが、1899年にその境界線が廃止された。16世紀以来、日本の中でも最初にヨーロッパやアジアの人々が暮らし、商売を営んできた歴史上重要な町長崎にとって、真の国際化時代の始まりとなった。
富三郎と、父の友人で雇い主でもあるフレデリック・リンガーは、内外倶楽部の拠点となる新しい建物の建設にも出資し、その建物は1904年に完成した。日清戦争後、長崎港は再び栄え、忙しい日々が続く中で、経済力のある男性会員のみというそのクラブは、外国から商用で訪れる人たちに長崎を印象づける最適な顔となった。クラブは日露戦争(1904-1905)の苦しい時代も存続し、乃木希典大将のもと日本が勝利したことで、アナトリー・ステッセル将軍の指揮により1400人のロシア軍捕虜が長崎を経由してウラジオストックに帰国するときも立ち会った。
プッチーニのオペラ『蝶々夫人』は1904年にミラノのスカラ座で初演されたが、後に内外倶楽部で年一回行われる仮装パーティーでは、世話役をしていた富三郎がピンカートンに扮したこともあったという。長崎を有名にしたそのオペラのピンカートンをまねるときでさえ、富三郎は完璧な英国紳士の立場をわきまえていた。事業も外交も活況を呈していたこの時代は、混血でも受け入れられる恵まれた頃であった。
内外倶楽部は、温和な性格の富三郎がうまくまとめて1940年代まで続いた。クラブの建物は木造2階建て、アジアでよく見られるコロニアル風で、至る所に富三郎の好みや西洋での経験が生かされていた。各部屋に置かれたマントルピース、2階の広々としたベランダ、広い階段と磨きぬかれた手すり、大理石を使った化粧室など、明治様式の印象を完ぺきに与えている。会議室や応接室、図書室、ヨーロッパ製のテーブルと椅子を配した食堂、ビリヤード室、バーなども富三郎の設計であった。
(図15, 16)
同じ頃、富三郎は日本人社会とも幅広く交際を続け、三菱の代々の社長である岩崎家とも父以来の親しい付き合いが続いていた。しかし良き時代は終ろうとしていた。1936年に行なわれたイギリス王ジョージ6世の戴冠を記念する華やかなパーティーが最後となった。そのパーティーにはワカも出席し、富三郎はいつものように紳士的な態度で接待役をこなした。
(図 17)南山手の丘に立つ邸宅から、あまり目立たない丘のふもとの古い洋館九番館へ引っ越すまではすべてが順調であった。丘の上のその邸宅は1864年に父が建てたもので、個性あふれる堂々とした家であったが、1939年、三菱造船所より提供を求められた。父グラバーは若くして、邸宅の下の方にロシア船の修船場を作る事業を行っていた。それは修理だけでなく造船場にも容易に変えられるようになっていた。彼は三菱の重役の一人であったので、後にそこに日本最大の軍艦建造場を作ることになったのだと思われる。三菱造船所は父グラバーの助けで長崎での事業の足がかりを得たのに、今やその三菱が富三郎に敵意を示したのである。というのは、その造船場は丘の上の邸宅から見下ろせる場所にあり、絶対機密の時代にそこに住みつづけるのは許されることではなかった。そして富三郎は、事実上自宅監禁のような生活となった。そうしている間にも、父グラバーが初めて本格的な造船場を造った敷地で、20世紀の転換期に日本海軍は世界最大の戦艦「武蔵」の建造を進めていた。
ワカは1943年に亡くなるまで、愛国婦人会の会員として出征兵士の見送りなども行なっていた。
(図18)そして富三郎は、原爆が落ちた17日後、九番館の2階の寝室で首を吊っているのが見つかった。原爆は浦上地区を襲い、天主堂や半径5Km内の建物はすべて破壊された。彼の死体は原爆投下直後のこともあって、瓦礫の中埋葬されないままの何千という他の遺体と一緒にされた。
富三郎が残した最も偉大な功績は、日本の魚類や海洋生物についてまとめた『日本西部及南部魚類図譜』(1936)である。これは、丘の上のグラバー邸や、出島に残る内外倶楽部の建物と同様に生き延び、今日、それらはすべて再興されている。それは一世紀を越えてグラバー家と友人のようにつきあってきた長崎人たちの間に、富三郎への愛情が続いているおかげである。(注L)
注
1. ウィステリア・リントンは、父サダキチの原稿、写真、個人的な資料などすべてをカリフォルニア大学リヴァーサイド校特殊文献図書館に寄付した。サダキチに関する写真はすべて、同校の好意により掲載させていただいた。写真は、晩年、バニングで小屋に住んでいたときのものである。円熟期に撮った写真は日本人らしさがよく出ていたが、この頃のサダキチは、明らかに日本よりヨーロッパの血を多く受け継いでいるようにみえる。混血の民族性は、このように子供時代と老年に特徴が出るが、自ら選んだアイデンティティーは、憧憬の旅をしているときに強く現れる。
2.サダキチを諷刺した漫画は、ハリウッド時代の友人の一人ジョン・デッカーが描いたものである。組み立てられた日本人らしさゆえ屈折したボヘミアンの面が強く影響しているこの時代の彼をよく描いている。
3.私も子供の頃、セーラー服と半ズボン姿の写真を撮られたことを覚えている。日本の中学校で今も普及している学校の制服は、これをモデルにしている。
4.サダキチは知らなかったと思うが、実際の話はこうである。
長崎のレーマン=ハルトマン商会は、プロイセン陸軍が使用しているライフル銃であるツュントナーデル銃の輸入代理店となった。その銃はプロイセン陸軍のためにジョアン・ニコラス・フォン・ドライゼ(1787-1867)が開発したものである。レーマン=ハルトマン商会は、その銃の威力を示せる人物を捜すことで、和歌山藩から注文を取りつけていた。それでその銃の製造工場に派遣されたことのあるドイツ人と接触を持った。1867年にその人物ケッペン(1833-1907)にこの仕事についての手紙を書き、日本に来て和歌山藩にその銃の使い方を教えるという契約を彼と交わした。1868年末、ケッペンはそのライフル銃3000挺と弾薬を持ってドイツを出発し、1869年6月29日に神戸に到着したが、11月になってから和歌山に入った。というのは、1867年に明治維新が起こり、政治的状況が一変し、明治政府が徴兵制度を導入しようとしていたからである。レーマン=ハルトマン商会とケッペンは、新政府のもと新興勢力となった和歌山藩と契約を交わした。
1870年から71年に独仏戦争が勃発し、プロイセン軍がフランス軍に快勝した。プロイセン軍の強さが日本人の関心を呼んだが、1871年、日本は中央集権体制による廃藩置県により新しく府県制が敷かれ、軍事力を特に強化していた和歌山藩も廃藩となった。これにより、レーマン=ハルトマン商会が和歌山藩の軍事訓練に独占的に関わっていたのも終りとなった。ケッペンは一時的にドイツに戻り、また和歌山に戻ってきたときには、彼が交わした契約はキャンセルされていた。彼は、残りの契約金を得てドイツに帰らざるをえなかった。
レーマン=ハルトマン商会と、日本でそれ程必要とされたケッペンとプロイセン式ライフル銃との関係は、興味深いものがある。おそらく、1869年にケッペンが大阪に着いた後レーマンとハルトマン二人ともが長崎の記録から消えた理由もそこにあるのであろう。それまでにレーマン=ハルトマン商会は事務所を大阪か神戸に移したので、サダキチはハンブルグに送り返された。ケッペンが和歌山藩との契約をキャンセルされたと知ったとき、レーマンもハルトマンも日本にとどまっても有益ではないと気づいた。ケッペンが帰国したのは明らかだが、他の記録からハルトマンも生まれた国ドイツに戻ったようだ。おそらく自分の兄に預けている二人の息子サダキチとタルーがいるハンブルグに戻ったのだろう。1869年1月以降のレーマンの消息はわからない。(これらは長崎県立図書館の本馬氏の好意により、公文書資料から荒木康彦氏が書いた記事を参考にさせていただいた)
5.ジョージ・ノックス編『ホイットマンとハルトマンの論争』 P67
6.同 P68
7.第一連の残りの部分である。
拒絶し破壊するよりも、むしろ受け入れ、溶かし、蘇らせ、
指揮するばかりか服従もし、先導するよりもあとにつづく、
これらのことも我らが「新しい世界」の教訓であり、
所詮「新しい世界」などいともささやかなものでしかなく、
「古い昔の世界」こそ実に、実に偉大であり。
長く長く長く草は茂りきたり、
長く長く雨は降りつづけ、
長く地球は回転を止めず。
(酒本雅之訳『草の葉』中 岩波文庫 P68-69より転載)
1876年のフィラデルフィア百年祭によせた「博覧会の歌」より。「つまるところ創造するだけではいけない」という題で1871年に出版された。『草の葉と自伝』 P441-50
8.アメリカでの若い頃のサダキチについては、太田三郎著『叛逆の芸術家―世界のボヘミアン=サダキチの生涯』を参考にさせていただいた。
9.『仏陀、孔子、キリスト―三人の預言者の戯曲』 P148-49
10.『サダキチ・ハルトマン―クリティカル・モダニスト』に参照。<この言い方が気になるのですが。よりorより抜粋>
11.『日本の美術』 P160-61
12.ここに抜粋し掲載した情報のほとんどは、『カリフォルニア大学リヴァーサイド校の新着書及び収蔵書季刊報、UCRブックス』に掲載された記事(1973)による。それらはジョージ・ノックス教授により書かれたものだが、出版はされていない。
13.富三郎の内外倶楽部建設への援助やグラバー家の情報に関しては、多田茂治著『グラバー家の最期』を参考にさせていただいた。また富三郎が生きるために選んだ社会よりも自分のアイデンティティーにとって心地よい方の呼び名を選んだ、つまり両方を取ることができなかった富三郎について、英語で書かれた心を打つ概論であるブライアン・バークガフニ著『倉場富三郎の人生スケッチ――両方を取ることができなかった男』を参照した。この人物の西洋的な一面は憧憬であった。人はこれを富三郎の生き方、つまり彼の物の見方や彼が建てた物、成し遂げたことに見ることができる。
写真説明
1.カリフォルニア州バニングでのサダキチ(1940年代初め)。(カリフォルニア大学リヴァーサイド校特殊文献図書館所蔵)
2.晩年のサダキチ(1940)(カリフォルニア大学リヴァーサイド校特殊文献図書館所蔵)
3.サダキチを諷刺した漫画。(カリフォルニア大学リヴァーサイド校特殊文献図書館所蔵)
4.魅力を持つサダキチの中年時代 (カリフォルニア大学リヴァーサイド校特殊文献図書館所蔵)
5.ハンブルグで学校に通う13歳のサダキチ(1880)。(カリフォルニア大学リヴァーサイド校特殊文献図書館所蔵)
6.学習院上等小学校時代の富三郎(1884)。(長崎県立図書館所蔵)
7.筆名にシドニー・アランを使っていた頃のサダキチ(1916)。シルヴィア・ビーチの撮影による。(カリフォルニア大学リヴァーサイド校特殊文献図書館所蔵)
8.サダキチ・ハルトマンの短い談話集「白菊」の表紙(ハーダ&ハーダ社 1971年版。オリジナル写真はJ.C.ストラウスにより1918年頃撮影)(カリフォルニア大学リヴァーサイド校特殊文献図書館所蔵)
9.現在のグラバー邸。(長崎県立図書館所蔵)<パンフレットの写真のようですが(長崎県立図書館所蔵)は必要ですか?>
10. グラバー邸から見た東山の手あたり(19世紀)。(長崎県立図書館所蔵)
11.
東京での住居である麻布富士見町のグラバー邸にて(1899-1900頃)。左より姉ハナ、父トーマス、ハナの長男、富三郎、ワカ。(長崎県立図書館所蔵)
12.
シドニー・アランとしてのサダキチ(1918頃撮影)。(カリフォルニア大学リヴァーサイド校特殊文献図書館所蔵)
13. 長崎社交界の中心人物であった頃の倉場富三郎。(長崎県立図書館所蔵)
14. おサダ(カリフォルニア大学リヴァーサイド校特殊文献図書館所蔵)
15. 内外倶楽部にて、筆者。
16. 内外倶楽部の2階、ミーティング・ルーム。
17. ジョージ6世戴冠式を祝うレセプションでの富三郎とワカ。オルト邸にて(1936年5月)。(長崎県立図書館所蔵)
18. 愛国婦人会の会員であったワカ(右端)。(長崎県立図書館所蔵)
参考文献
●荒木康彦『レーマン=ハルトマン商会とカール・ケッペン』 川口居留地研究会会報第13号 1988年8月発行(長崎県立図書館所蔵)
●同 『レーマン=ハルトマン商会と幻の「第二の維新」』 「特集 開化大阪と外国人」より P62-67 書名及び発行日不明 (長崎県立図書館所蔵)
●同 『撃針銃にみる維新期の紀州』P3 朝日新聞 1997年12月26日付
●太田三郎『叛逆の芸術家―世界のボヘミアン=サダキチの生涯』 東京美術 1972年
●越智道雄『サダキチ・ハートマン伝』 三省堂ぶっくれっと 1998年〜
●サダキチ・ハルトマン『仏陀、孔子、キリスト―三人の預言者の戯曲』 ハリー・ロートン、ジョージ・ノックス編 ニューヨーク:ヘルダー・アンド・ヘルダー 1971年
●同 『日本の美術』 ニューヨーク:ホライズン・プレス 1971年
●同 『サダキチ・ハルトマン―クリティカル・モダニスト』 ジェーン・カルフーン・ウィーヴァー編 バークレー:カリフォルニア大学プレス 1991年
●ジョージ・ノックス編『ホイットマンとハルトマンの論争』(『ウォルト・ホイットマンとの対話』及び他の評論を含む) ベルン:ピーター・ラング 1976年
●同 『ウィステリア・ハルトマン・リントンの収蔵品とハルトマン研究の経緯』 カリフォルニア大学リヴァーサイド校図書館の新着書及び収蔵書季刊報1−1号 1973年6月
●ウォルト・ホイットマン『詩集草の葉と自伝』 フィラデルフィア:デヴィット・マッケイ 1900年
●ウォルト・ホイットマン作・酒本雅之訳『草の葉』中 岩波文庫 1998年
●多田茂治『グラバー家の最期』 福岡:葦書房 1991年
●ブライアン・バークガフニ『倉場富三郎の人生スケッチ――両方を取ることができなかった男』P51-73 クロスロード長崎歴史文化新聞3号 1995年夏号
●鶴田欣也『越境者が読んだ近代日本文学』 東京:新曜社 1999年